ソノマの暮らしブログ

カフマン 恵美子 はまだ経歴を設定していません

燃え尽き症候群ーケミカリー・アンバランス

20年ほど前に「自分史」を書くのが流行って(?)いて、私も書いてみました。

その中の一部に、更年期にうつ病のなってしまったことが書かれているのを見つけました。少し長いけどブログに載せることにしました。

私が受けた治療法は多少古いかもしれません。現在はもっと進化した抗うつ剤が出てきています。

ケミカルアンバランスの原因は今もまだ解明されていません。一般的に環境、社会事情、ストレス、トラウマン度が原因だと信じられています。

今は、心のケアークリニックが日本にもあちこちに存在しているようですね。心が晴れない日々が続いてるなあと感じたら、軽い気持ちで相談に行ってみるのもいいかもしれません。

燃え尽き症候群ーケミカリー・アンバランス

夜中に何度も目が覚めてしまう。まるでコーヒーを飲みすぎてカフェインががんがんと利いているような状態なのだ。感情の起伏が激しくすぐにかっとなる。悪いところばかりに目がいって、いつも家族に小言ばかり言い続ける。原稿は締めきりぎりぎりまで書く気がしない。やっと書き終っても「やったー!」という喜びがなくなってしまった。寝不足だから当然だと思っていたが、朝はベッドから出るのが嫌でたまらない。人に会うのも億劫でしかたがない。特に日本から来た仕事関係の方に会うのに恐怖心を感じてしまう。レイが「年を取っていくことを哀しんでいるの?」などと聞くと、なんとお門違いなと、ますます腹がたつ。レイは私の状態をみて、ひそかに、ミッド・ライフ・クライシスではないかと思っていたのだろう。アメリカ人が中年を迎えると、突然に自分の老いの始まりに気付いて、これでいいのだろうかと不安に陥ってしまう症状だそうである。

私は自分が老いていくのは自然な現象だと思っていたから、ミッド・ライフ・クライシスだとは思わなかったが、あまりがむしゃらに、勉強、育児、仕事に頑張りすぎたせいで、ーちらっと日本で聞いた「燃え尽き症候群」という言葉を思い出してー、これだと思っていた。少しのんびりしていたら直るだろうと自分に言い聞かせていたが、それにしても憂鬱である。楽しいと思えることがほとんどない。

私の誕生日を祝って、レイが私と娘をパリに連れて行ってくれた。というと裕福な家庭のハズバンドが「パリ行」という豪華版誕生プレゼントを、という感じなのだが、残念ながら現実はそんなに甘くなくて、レイは仕事でドイツに行かなければならなかったので、2日間だけパリに滞在するというもので、宿泊も私の知人のアパートに泊めていただくという節約旅行である。それでもパリはパリだ。私が過ごしたいようにパリでの1日のプランを作るようにと言ってくれた。本当にありがたいことである。とても感謝しているのに、晴れやかな幸せな気持ちが沸いてこない。札幌時代にあれほど張り切って行ったパリ。それなのにどこへ行って何をしたいのか自分で決めることもできない。レイが行こうと言ってくれた場所へついて歩くのが精一杯で、すぐに疲れてしまう。それでも私なりに楽しかった。楽しかった度合は、赤ワインに例えると、深みとボディがあって味わいがたっぷりのカベルネ・ソヴィニヨンというよりは、寒かった年のやや軽めのカベルネ・ソーヴィニョンの味くらいだったけれど、親子3人で過ごした幸せなパリだった。でも家族には私が楽しんでいるようにはみえなかったそうである。

相変わらず気持ちの晴れない日々が続いて、1995年も終りに近づいていた。その年の感謝祭はランスとサンディの家で祝った。11歳になった奈世美が私に代わってアップルパイを焼いて誇らしげに持参して、喝采をあびているのをみて、大きくなったんだなあとしみじみ思ったものだ。親しい友たちとの家庭的で穏やかな会食だった。

感謝祭が終ると街はクリスマス一色に変わる。アメリカのクリスマスは日本のお正月のようで、遠くにいる家族が帰郷してプレゼントを交換してディナーを一緒に楽しむファミリー・デイである。もちろん敬虔なクリスチャンは教会へでかける。いろんなパーティが開かれて、例えば友達同士でささやかなでも愛情のこもったプレゼントを交換したりするのは、ホリデーシーズンと呼ばれる感謝祭の後からクリスマス、お正月までの間である。 この時期になると多少は感じていた疎外感が、その年はことのほかに強く感じられた。日が暮れるのが早くなって朝夕の寒さが増してくるのが、一層、心と体に堪えた。クリスマスは奈世美を中心にして、私なりに楽しい家族団らんを楽しむのだが、私の両親はこの場面には登場しない。それに私と女友達だけで楽しむパーティというのはなくて、子供がまだ小さいから、子供同士のプレゼント交換に母親同士が立ち合って、サンドイッチを一緒に食べるというのがせいぜいだった。それはそれで楽しいものだったが、母親としての楽しみで一人の大人としての楽しみは満たされない。

感謝祭の翌日から憂鬱状態がどんどんと強くなってしまった。理由もなく涙が出て止まらない。それまでにも涙が出やすくなったなとは感じていたけれど、年のせいで涙もろくなったのだと思っていた。しかし今度はそんなものじゃない。そのときにふと思い出したのが、ケミカリー・アンバランスという言葉だった。ある日の午後、学校の帰りに娘を眼科に連れて行って待合室で読んだ婦人雑誌に「あなたは大丈夫?10の質問の中で五つ以上のイエスがあったら、あなたはケミカリー・アンバランスという症状に悩まされています。これを治す薬がありますから、ドクターに相談しましょう」とあった。暇つぶしに質問に答えていったら、イエスが六つほどになった。脳内部の科学物質のバランスがくずれて起こる症状である。要するにうつ病の一種のようだ。今まで私は燃え尽き症候群と思っていたが、違うのかもしれない。翌日、私たちが入っている保険、カイザーの精神科に電話をかけた。

「私は憂鬱な状態がずうっと続いているので、ケミカリー・アンバランスだと思います。それで薬がほしいのですが。」

「よくわかりました。どのくらい前から、憂鬱な状態が続いていますか?」

「もう一年にはなると思います。」

「ああ、そうですか。薬を差し上げるのには、ドクターにお会いしていただかなければなりませんが、予約日まで二週間ほどかかってしまうので、早道のためにまずカウンセラーにお会いになってはいかがでしょうか?カウンセラーが薬が必要とドクターに伝えると、ずうっと速くに薬が手にはいりますから。」

「じゃあ、カウンセラーの予約をとってください。」

「カウンセラーは男性がいいですか。それとも女性にしましょうか。」

「同じ位の年の女性のカウンセラーがいいと思うのですが。」

「そうですね。じゃあ、スーザンがぴったりだと思いますので、そのカウンセラーの予約を取っておきますね。ハブ・ア・ナイス.ビジット!」

四〇代後半くらいの女性らしいふっくらとした落ち着いた声で受け答えをしてくれた。もしキンキン声で高飛車な電話応対をされたら、私はきっと話の途中でぱっと電話を切ってしまい、二度と電話をかけようとはしなかったと思う。

精神科へ行くのもカウンセラーを受けるのも生まれて初めてだった。しかしさすがは訓練を受けたカウンセラーである。想像していたのとは違って、押し付けがましくなく、説教調でもなく、わざとらしい同情をするわけでもなく、さりげない会話の中で自分の精神状態、その原因を自分なりに分析するように導いてくれるのだった。アメリカ人がカウンセラーに通うわけがよくわかった。スーザンが着ていた薄いピンクのセーターが今でも目に浮かぶ。

「オー・マイ・ディア!そんなに涙がでるのは、睡眠不足のせいですよ。早速、ドクターにお願いして眠るための薬を出してもらいましょうね。それにしても一人で決心してよく来ましたね。そのままにしておいたら、あなたはベッドから起きられなくなっていましたよ」と褒めてくださった。会話の中に「ハズバンドはあなたがここに来ていることを知っていますか?彼は『そんな薬を飲むなんて!』と他人の目を気にしたりしませんか?」という質問をさりげなく加えながら、私と夫との関係をチェックしている。私と夫との関係悪化がこの症状の原因でないことをクリアした。それからパトリシアという女性の精神科医のオフィスに案内されて、「あなたの家族に鬱病の方はいませんね」という質問などの後に一時的に使用するための安定剤入りの睡眠薬と、私の症状は軽いケミカリー・アンバランスだからと「ゾロフト」という薬の処方せんを書いてくれた。「先生の緩やかにカールしたブロンドの髪とベージュのルーズなパンタロンスーツの色がよくマッチしているな」などと考えていたら、大柄で情熱的な感じさえするドクターは「日本の女性の社会的地位は向上しましたか?」なんて聞くのでちょっと戸惑ってしまった。脳の中にある科学物質にセラトーンというのがあるそうで、この物質が細胞から細胞へ移動して戻ろうとするときに細胞が閉じてしまい、セラトーンが片寄って存在することになる。「ゾロフト」はこのバランスの崩れるを、もとに戻す作用をする薬だと説明してくれた。バランスを取り戻すには、この薬を最低6カ月は続けなければならないと言われた。薬の服用とカウンセリングを併用したほうが効果があるという。

カウンセリングは2回ほどで終ったが、自分ながらショックだったのは、札幌の親友の話をしたときに涙が溢れて止まらなくなってしまったことだ。スーザン先生がティッシュを手渡してくれたほどだった。カフマン恵美子ではなく、西井恵美子を知っている友人が恋しくてならなかった。若い時代を共有した親友たちとは、二〇年たった今でも帰ると何回でも会えるだけ会って、いくら話しても話がつきない。アメリカ人の友人とはそういう付き合いにならないのは、一緒に大人になっていった時期を共有していないから当り前なのだということを、カウンセラーとの話のなかで納得することができた。それでも恋しさは消えない。そこでカウンセラーは「話したいときに電話をしてみたらいいんじゃないかしら」とサジェスチョンをしてくれた。さらに「年をとったら1カ月でも半年でも日本で過ごせるようにプランを練って、そのプランの達成に向けて努力をすればいい」というアイデアに誘導してくれた。特に長期滞在のプランのアイデアが出たときには、まわりがぱっと明るくなった。レイはそんな私のプランに「それも悪くないね」とあっさりと同意してくれた。今でもこのプランは私の希望の光として輝いている。電話のほうは納得がいくだけ話をしようとすると、電話代がかなり高くなるし、今ひとつ気持ちが満たされなかった。でも母親とだけは電話代など気にせず、1カ月に数回ほど電話で話している。

ゾロフトはこの種類の薬の中では一番マイルドだということだったけれども、私にはかなりの強さで作用した。とにかく眠くて眠くてどうしようもない。仕事どころではないのだ。飲む時間を変えてみたが、それでも朝の一一時ころまでうつらうつらしている。そんな私を見て、レイは「まるでドラッグにやられてるみたいだな」と驚いていた。しかしよく笑うようにはなった。「もとのエミに戻った。こんな女性と結婚したのかとちょっとがっくりしてたけど。ナヨミが一番嬉しそうだヨ」とその効果を喜んでくれた。

「ああ、原稿が書けないんだよね。締切が迫っているのに。うふふ」

「朗らかになったのはいいけど、なんでもどうでもいいって感じだナ。クスリが利き過ぎてるんじゃないの?あと、どのくらい飲まなきゃならないの?」

「うふ、そうかな。さあ、あと、どのくらいかしらねー」

そうこうしているうちにウォンズの原稿を書く仕事も失ってしまったが、もう、そろそろ辞めてもいい時期ではあると思っていたので、心は痛んだけれども、ほっとしないわけでもなかった。

朦朧、ほんわかの六カ月が過ぎて、もとの私に戻ることができた。感謝祭がやってくる一一月になると、やっぱり多少は落ち込んでしまうけれど、今は、どんな症状が出たら気を付けなければならないかがわかるので、こまめにその対策に当たる。眠れない夜が二、三日続くと、しっかりとエクササイズをする、積極的にお友達を誘ってコーヒーを飲みにいっておしゃべりをする。レイと映画を見に行く。美しい山々を眺めながら愛犬のサミーと一方的なおしゃべり?をしながら散歩をする。わけもなく哀しい感情が溢れてきたら、否定したり押さえ込んだりしないでその感情を受け止める。

アメリカではケミカリー・アンバランスの症状に悩んでいる女性がとても多いという。なぜ男性よりも女性のほうが多いのかは、まだわかっていないそうだ。私はゾロフトを半年だけ飲んで治る軽い症状だったが、プロザックという、同じタイプの薬を長い間飲み続けている人達もかなりいると聞く。湾岸戦争で抜群の優秀さをアメリカ中に知らしめた軍人パウエル氏が、退職後に共和党の副大統領候補にと依頼されたけれども断わって話題になったことがある。同氏の奥様も長年、プロザックを服用されているということだった。アメリカではケミカリー・アンバランス、うつ病を精神病として隠す傾向が少なくなっている。脳の科学物質のバランスがくずれて起きる現象なのだから、薬を飲んでバランスをもとに戻せば治癒する病気なのだ。もし、日本でうつ病に悩んでいられる方がいたら、躊躇することなく病院へ行かれることをお勧めしたい。

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