ソノマの暮らしブログ

じいちゃんと拡大鏡

ずいぶんと前に亡くなりましたが、私が記憶している父方の祖父「西井のじいちゃん」のイメージは白内障のため、目を細めて、拡大鏡を使って読んでいた姿です。

先日 20年ぶりに 北海道の東部の町、中標津町(釧路から車で1時間)を訪れました。 高校卒業まで住んでいた町です。 30年前に訪ねた時でも、様子が 随分と 変わってましたが、 まだなんとなく 私の記憶とつながっていました。 でも今回はすっかり変わっていて、よく歩いていた叔母が 住む 家までの道さえもわからなくなっていました。 でも 中標津 は 緑豊かで 福祉設備が整った 良い街になっていました。

町の中心と思われるところから車で15分のところに 武佐という地区があります。 列車が走っていた頃は、 母方の祖父母の家まで子供たちだけで列車に乗って遊びに行ったものです。父方と 母方の祖父母は 開拓民として武佐にやってきました。 自分たちで 開拓すると自分の土地になるという政府の方針でやってきたものです。 とても貧しくて 屋根が笹ぶきの家 に住んでいたと聞いています 。

ある日、 父の遺品を整理していたら「 開拓の記」と題した 紙の色が黄ばんだ小冊子が目に入りました。西井の じいちゃんが武佐へ開拓者として入った時のことが 詳細に 自筆で書かれていました。

Jichan 表紙
昭和3年に母方の家族が武佐の開拓村へやってきたころは、ある程度の開拓が進んでいました。大正5年にじいちゃんたち20戸の開拓者が協力して学校を建てています。そのおかげで母たちは学校へ行くことができました。じいちゃんが武佐へやってきた当時は、くわ(鍬)一つで与えられた土地を切り開いたことを回想録で知りました。
昭和39年に中標津町武佐開基50周年記念式典が催されて、この席で、じいちゃん、西井作右エ門さんは開拓功労者として表彰を受けています。それを機に根室原野武佐に入植した当時の模様を記憶をたどって「開拓の記」と題して、昭和40年に書き残したものです。20ページの手書きの小冊子はガリ版印刷で印刷されています。それもじいちゃんが描いたイラスト入りです。詩心もあったようで詩も挿入されています。
コピーが開発されていなかったころ、明治から昭和の中ごろまで、印刷物は主に「謄写版(とうしゃばん)」という印刷機で作られていました。原紙(表面にロウを塗った薄い紙)に鉄筆で文字を書くと小さな穴があき、その穴からローラーでインクを押し出して紙に転写する(孔版印刷)という仕組みです。鉄筆で文字を書くとき、ガリガリ音がするから「ガリ版印刷」とも呼ばれました。
遠い昔の知らない人たちの開拓の苦労話と思っていたのですが、家に泊まりに来ていた温和な「西井のじいちゃん」が厳しい苦労を乗り越えて武佐という土地を開拓したのだと思うと不思議な気持ちです。
ご存知のように北海道に住んでる人たちは、もともとは本州から移り住んだ人たちが祖先です。明治29年に西井家も富山県からじいちゃんが3歳の時に長沼町に移住しています。

以下が、簡単な内容です。
開墾のための伐採作業中にけがをして、じいちゃんが9歳の時に亡くなった父親の跡を継いで、4年の義務教育を終えた12歳のじいちゃんは懸命に働く母を支えて農業に励みました。なんと16歳になったじいちゃんは馬を購入して自分で馬耕もして、19歳で近所の畑を借りて耕作地も増えて、馬を2頭、農具も一通りそろって一般の農家並みにしたのです。でも小作農家です。凶作の年に地主が要求する小作料は不当なことが度々あって、じいちゃんはやり切れない思いを味わっています。いつかは自作農にという希望を抱いていました。そんな時に、根室原野に膨大な土地があり、その土地は肥沃でまだ住民が少なく、未開の荒野を根室支庁が開拓者に無償貸与しているという話が伝わってきたのです。自作農になりたいじいちゃんは母親の反対を押し切って根室原野の開拓に行く決意をしました。長沼の知人5人で出発したのは大正2年11月28日のことです。じいちゃんは最年少、21歳でした。強い意志を持っていた人なのでしょう。長沼から網走までは夜行列車で、翌日から、着替え、なた、鍬などを背負って、草鞋を履いて海岸の砂浜を踏み鳴らしながら斜里まで歩きました。その後は山道に入り、武佐近くになると道一つない笹原を歩き、数夜の野宿をして到着。大正2年12月2日に標津原野(今の川北)にたどり着いたと記してあるので、網走から中標津町武佐まで4日間で着いたことになり、かなりに速度で歩いたんですね。

Jichan 地図
木を切り、細木を集め、小屋を建てて、屋根は刈り集めた笹で囲いました。一間の笹ぶきの家は駕篭のようだったそうです。入植した新区画の土地(今の南武佐)の周辺には一緒に長沼からやって来た5人以外はだれもいません。食料の収穫ができるようになってから残してきた家族を呼ぶという計画だったので、その年のお正月にはじいちゃんともう一人を除いて長沼へ帰りました。残った二人は無人の山奥で越冬。新聞も雑誌も何もない生活を「何んともやり切れないものであった」と記しています。大正3年のことです。雪が深すぎて道をつけることが大変で、どこにも出られず麦飯と秋味の塩汁が毎日の食事でした。一面の白雪、一羽の小鳥もいません。3月に入ってマッチが無くなったので、9.75kmの雪道を歩いて川北という8戸の開拓者がいる小村の知り合いを訪ねて泊まらせてもらって、標津の浜まで歩いてマッチ、塩、石油などの必需品を買ってきました。4月になって雪が解けたので、掘立小屋を建てました。

大正3年5月に初めて、本格的な開墾の鍬を打ち込みました。でも鍬一丁での開墾は、いくら働いてもあまり進まず、収入を得るために出稼ぎに行っています。900坪の土地に裸麦、大豆、とうきび、キュウリそば、芋などを植えて、最初の出稼ぎに行きました。造伐した枕木を流送する仕事です。標津川を慣れないイカダに乗って運ぶのですが、川の流れが急カーブになっているところなどは命がけでした。2ヶ月くらい働いて8月下旬に家へ帰って畑をチェックしたら、島ネズミに食べられて収穫できそうなものは芋くらいしかありませんでした。9月の上旬に芋の堀り取りしたら、収穫量は5,6俵ありました。これを貯蔵して、いったん長沼へ帰って、婚約中だった「たか」さんと結婚。私の父方のばあちゃんです。

大正4年のお正月を長沼で迎えました。妊娠している「たか」さんを長沼において、5月に、根釧原野に乗り込んだ時と同じ夜行列車で網走まで行って、そこから斜里まで砂浜を草鞋を履いて荷物を背負って山道を超え野宿を重ねて武佐の新区画にたどり着きました。
2年目の開墾を始めたのですが、長沼で種まきを終わらせて5月に武佐へ帰ってきたのですが、寒い根釧原野では種まきはこれからなのでした。鍬一丁では一所懸命働いてもあまり開墾が進みません。それでも裸麦などを少し植えました。昨年貯蔵しておいた芋を植える畑の開墾が進まず植え付けることができません。7月にようやく蕎麦を900坪ほど植えることができました。販売できる作物がないので、生活資金調達のために、また出稼ぎに出ました。10月に出稼ぎを終えて家に帰って、麦とそばが一俵ほど収穫できました。とうきびとセンダイカブも採れました。

この年は長沼から帰ってきた仲間が数人いたので一人ぼっちのお正月を迎えずにすみました。長沼へ戻った時に、大工道具ひと揃えを隣村の知人宅に送っておいたのが届いたので、板を作って、小さな机、お膳などいろんな家の道具を作りました。

愉快なのはスキーなるもの標津の浜で初めて見て、早速まねて作ってみたということです。履いてみると雪の上を走れる、歩かずに滑れるので便利だと感激しています。大正5年のことです。
春になって5月に入ると妻の「たか」さんが武佐へ来ると知らせてきました。まだところどころに雪が残っている山道をひた走りに斜里まで迎えに行きました。「たか」さんと一緒に数人の人が武佐へやってきました。新区画に着いた妻「たか」さんは山奥の哀れな住まいに驚きましたが、ここまで来てしまったので帰ることができず、頑張るより仕方がないと覚悟しました。妻「たか」さんは長沼で生まれた長男を背負って開墾を手伝っています。このころには一緒に入植した仲間たちの家族も加わっていたので、「たか」さんは寂しい思いはせずにすみました。6月までに種付を終えて、また流送の仕事に行きました。米、みそなど必需品を買ったら、出稼ぎで得た収入はほとんど残りません。でも当時は、これだけあれば当分の暮らしには十分だとしています。

夏ころから学校の必要が感じられるようになって、部落民(新区画と旧区画を合わせて20戸ほど)で相談して協力して学校を建てています。建築資材は部落民各自が木挽きして、板を3坪ずつ持ち寄りました。大正5年10月に立派な学校ができたと記しています。

Jichan 詩

このころになると、ようやく畑の収穫物も1年分の食料が間に合うくらいになりました。収穫が終わったら、開墾のために笹を刈り、立木の伐採に励んでいます。
「このころ私は張り切っていたのだろうと思う。毎晩、夜業をした。小さなカンテラの灯りで家具を作った。戸棚、箱膳、机、針箱、仏壇、その他、必要な家具はなんでも自分で作ることにしていたが、ただ、桶だけはどうしても作ることができなかった。水が漏れて用を足さなかった」と自給自足の暮らしぶりを記しています。じいちゃんが作った家具を見たかったです。
大正6年のお正月を過ぎたころ、また出稼ぎに出でています。

成功検査というのがあって、5年に5町7反を開墾しなければならないとなっていましたが、鍬一丁では規則通りにできません。それに資金がないので出稼ぎをしながらの開墾なので歳月がかかります。「今と違って国の助成金とか補助というものは何一つなかったが、規則は厳しいものだった」という状況でも「規則通りに拓かねば土地を取り上げることもある」と脅かされました。
「いずれの未開拓地に入地しても立派な農耕地となるまでには3代くらいかかるのが普通だ。石狩や十勝でさえもそうだった。ここでも立派な農耕地となるまでには3代の年月を辛抱せねばならない。その辛抱ができるか」と支庁の係の人に言われました。石狩や十勝よりも悪条件が多い根釧原野なので、大変なことだと自覚しましたが、「今更どうしようもないので最後まで頑張るのみ」と覚悟しました。
大正6年になると14号道路、10線道路(どのあたりなのかわかりません)ができて中央に店もできました。

大正7年2月に私の父、正雄が生まれました。同年3月にまた出稼ぎに出ています。バチ乗りと言って木材の前だけをバチ(方言らしく、辞書では見つかりません)に乗せて、山の斜面を滑り下り、急な所はバチにタガ(ブレーキ)をかけて雪煙を浴びる速さで降りて平地の一定の箇所に集材する仕事でした。「人命にかかわる危険があり、あまりやる仕事ではない」とじいちゃんは思いました。

4町くらいの畑地ができたので農作物を植えました。収穫物のうち、ビルマ豆と蕎麦を少しだけれど売ることができました。「これが入地以来、初めての農作物からの収入で感無量であった」と喜びを表現しています。大正2年に開拓地に足を踏み入れて、5年目にして、ようやくわずかですが農作物を売ることができたのです。この年から郵便物が各戸に配達されるようになりました。

大正8年は冷害凶作で農作物もあまり収穫できず、新しく入地する人も少なくて、脱落して出ていく人もいました。相変わらずの自給自足の生活で、日中は畑仕事、夜はうす暗いランプの下で麦を挽き、とうきびをひきわりして、コメの代用品作りに励みます。妻の「たか」さんは冬の間に地下足袋(ちかたび)を一人当たり3足くらい作るのも仕事でした。

大正9年には大豆と小豆が収穫できるようになりました。この年、やっと馬を買うことができて、馬耕するようになって耕作が進みました。

根室原野は豊凶の差が激しくて、冷害凶作で困る年が度々ありました。ひどい凶作が続いて食料は何も採れず、根釧原野の住民が餓死すると大騒ぎになって政府の救済事業が施されたこともあります。
生活は一向に楽になりません。働くことを少しも緩めることがありませんでした。

農作物による収入が極度に不安定なため、収入源の安定のために乳牛の導入の必要を感じていました。タイミングよく武佐に住む知人が搾乳が面倒だから牛を馬と交換しないかと言われて2歳馬と交換しました。大正14年のことでした。乳量がたっぷりの牛でした。

集乳工場ができて、昭和6年には今の雪印が集乳を始めています。牛乳の生産者は牛乳が入った重い輸送缶を背負って集乳所まで運びました。大変な仕事でしたが、やがて馬車、馬そり、リヤカーなどが利用できるようになり、今は自動車運送になっています。

昭和19年に国鉄根室標津線が開通になりました。この国鉄の列車に乗って母方の祖父母の家に遊びに行ったものです。
「西井のばあちゃん」に私は会ったことがありません。「大勢の子供に見苦しいなりもさせず、洗濯も人並み以上にし、朝早くから夜遅くまで働きとおした」西井のばあちゃんは「夜だか昼だかわからない」とよく言ってたそうです。

忙しい忙しいの毎日を繰り返し続けているうちに大正の年代が去って昭和になって、10年15年と経ちました。
芋を作り牛を飼って徐々に安定した生活が送れるようになったころ、大東亜戦争、第二次世界大戦が始まって、敗戦を迎えました。

昭和21年2月に「西井のばあちゃん」はふとした風邪に罹りました。あらゆるものが極度に不足の敗戦下で医者を迎えても薬をくれる医者はいませんでした。「今では想像のつかないことで、注射代用のトンプクがあると聞き頼んで拝んで三拝九拝して、やっとそのトンプク一服と麦1俵を交換してもらったが、トンプク一服では効き目も見られず、遂に他界した」苦労しっぱなしで亡くなりました。「未知未開の原野に入り、働いて働いて、やっと生活も軌道に乗りかけ、8人の子供も成長して、これからという頃の死で、本当に可哀想なことをした」西井のじいちゃんの哀しみが伝わってきます。
何年もかけて寒い道東の原野で自分の土地を切り開いた西井のじいちゃん。武佐開拓の初期に入植した人物の一人だったんですね。ゆったりとした物静かなじいちゃんが、大変な苦労をして今の武佐を切り開いてきた人物であることを知りませんでした。

「根室原野も苦難の50余年 の歳月を経て、ようやく この地にふさわしい農業が誕生しつつある。馬鈴薯を植え 牛を買い、 経営基盤を整備し 近代的進歩的技術を取り入れ、 今後は堅実な そして 安定した農業が樹立され、根室原野ならではの一大酪農郷として栄えるだろう」と予測しています。

釧路市から中標津町へバスで入った時に、大きな農場があちこちにあって、豊かな酪農家が増えてるなあと思いました。現在、武佐で後を継いだ母方の3代目のいとこの息子さん(4代目)は150頭の牛を飼っています。いとこの農場(ファーム)は、この地域では中規模の農場だとのこと。100haの土地を持つ農場が少なくないそうで、じいちゃんたちが苦難を経て開拓した武佐は 豊かな酪農の地になったのですね。

Jichan 本の中

あとがきに、「書き足りないことがまだまだあります。芋作りのこと、牛飼いのことについても幾度かの盛衰を経ています。目が悪くて、もう書く気力もありません」とあります。
白内障で目がよく見えなくて、大きな拡張レンズを使っていた西井のじいちゃん。今の時代のように手術で良くなっていたら、もっともっと何か書いていたでしょう。

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