11月初旬に4年ぶりに札幌に帰りました。コロナのせいでずっと帰れませんでした。 札幌に滞在中、本州は夏のように暑くてニュースによると ラーメン祭りなのに かき氷がよく売れたと言ってました。 札幌の11月は初雪が降る時期です。さぞかし寒いだろうとセーターをスーツケースに詰めて覚悟して帰ったのですが、ラッキーにもそれほど寒くなくてありがたかったです。 私が帰った後に雪が降ったみたいです。
親友N子さん
札幌を離れて35年余り、帰ると必ず会ってくれる親友のN子さん。滞在中は私のスケジュールに合わせて、会えるだけ何度も時間を作って会ってくれたものです。小柄で優しい可憐な声で上品に話すN子さん。 とっても知的でそれはそれはいろんな話を飽きることなく話しました。辛いことも楽しいことも話し合ってお互いに支えあってきた親友です。
札幌での待ち合わせは、いつも、三越のライオンの前でした。
その彼女が背骨を骨折して2カ月入院しました。 退院して2週間後の初めての外出で、 私に会いに来てくれたのです。
会う約束の電話では、
「あー、恵美子さん、お帰りなさい!」いつもの彼女の声でした。
「入院、大変だったね。もし外出できるのなら、土曜日に会いたいと思ってるんだけど、空いてる?」
「はい、土曜日は空いてます」
「何時がいい?」彼女のスケジュールに合わせようと思って言いました。
「何時でもいいけど、11時半はどう?」
「了解」
「私がN子さんの地下鉄駅の琴似まで行くから、地下鉄近辺でランチかお茶をするのはどう?」先日の電話でご主人から、退院後、まだ外出してないと聞いていたからです。
「大丈夫。三越のライオンの前まで行けるから」自信たっぷりでした。
「じゃあ、いつものように三越のライオンの前で、明日、会おうね」
「はい、土曜日の11時半に」三回ほど念を押すように繰り返しました。
もしかして土曜日が明日だということを認識してないかもしれないとふと思いました。
翌日、三越のライオンの前に、少し遅れて着きました。彼女はいません。彼女のご主人から電話が入りました。
「今朝、彼女のスケジュール表を見たら11時半に会うと書いてあったので、だれに会うの?と聞いたら、誰と会うんだったか覚えてないというので、もしかしたら恵美子さんじゃないのと言ったら、そうかもしれないっていうんだよね。それから大急ぎで出かける支度をして、今、家を出ました。タクシーで行くように勧めたんだけど、地下鉄で行くと言い張って地下鉄で行きました。うまく着くかどうか心配なので着いたら連絡ください」
N子さんは1時間半ほど遅れてやってきました。細い彼女がもっと細くなってました。
「ごめんね、遅れてしまって」といつもの笑顔です。
ふらりふらりと頼りなげに歩くので、私が手を添えて一緒に歩いたのですが、この歩き方でどのようにして地下鉄の階段を上ったり下りたり、そして人ごみの中を歩いてきたのか信じられません。
いつものように三越のカフェの窓際の席で交差点を行きかう人々を眺めながら二人でコーヒーを飲みました。ああ、札幌に帰ってきた!親友に会えたという嬉しさがこみ上げてきました。
「歩くのが大変だからランチはどこか近いところにしようよ」
「大丈夫よ、歩けるから」歩行が不自由なことを認識してないようです。
すぐ近くのレストランでランチを食べながら、いつものように いろいろ話をしました。話がずれることなく知的な会話をちゃんと続けてくれます。でもどこか 昔の彼女とは違います。私が話し掛けないと、じっと下を向いたままです。
「話してると普通なんだけど、その後、すぐに忘れてしまうんだよね」とご主人が電話で言ってたのを思い出しました。今日、二人で過ごしたひと時を彼女は 覚えていてくれるのかなと悲しくなりました 。
N子さんと私は20代から同じ職場で働いていました。部署が違うのであまり話をすることがありませんでした。当時のオフィスレディの典型的なパターンで、N子さんは間もなく職場の男性と結婚しました。
一方、私は典型的パターンからかなり外れていて、組合活動やら政治活動に明け暮れていました。国家公務員なので政治的なデモ(組合のデモはオーケー)などには参加すべきではないのに、大勢の仲間たちが繰り広げる大きなデモに参加したりしてました。上役にそれとなく注意されたこともあります。
そんなある日、会合の後、アパートに帰る途中でタクシーにはねられて頭に怪我をしてしまいました。脳波に異常が出るほどの怪我で、1カ月ほど入院。職場に復帰したものの、後遺症で頭痛に悩まされ、脳波に異常が出て倒れてしまうから、激しい運動はしないように、走るのもダメと言われてました。
朝の通勤にバスに乗っていたのですが、バスが遅れて勤務時間に遅刻しそうになりました。一緒に政治活動をしていた職場の仲間たちは私を置いて、さあっと走っていきました。私一人残されたのです。遅れる覚悟でゆっくり歩いていたら、N子さんが横に来て一緒に歩いてくれたのです。
「勤務時間に遅れるから先に行って」
「少しくらい遅れたって大したことないでしょう」とN子さん。
弱い人に寄り添ってくれる女性がいたのです。政治活動をしていた仲間と同じように、私のスピードについてこれない人には関心を持っていなかった自分に気が付きました。この時から友人としての付き合いが始まりました。
私が渡米してからも、彼女との交友は続きました。
一歳半の娘を連れて札幌へ帰った時に、N子さんの次女のノンちゃん(5歳)が一緒に遊んでくれました。その時にノンちゃんは英語が話せたら、もっと娘と楽しく遊べるから英語を勉強したいと思ったそうです。そしてノンちゃんはボストンの大学に留学しました。娘が高校生の時に休暇でボストンから帰ってきていたノンちゃんと娘は英語でおしゃべりしてました。
N子さんは50代の時に、勤務中に、突然、頭が真っ白になるという症状が頻繁に起きるようになって、早めに退職しました。医師の診断ではどこも悪いところがないということでした。でも、今、認知症になってしまったことと関係してるかもしれません。
ホテルへ帰って一人になった時に涙があふれてきました。もう生き生きとした優しい笑顔のN子さんと昔のように話をすることができなくなってしまったのです。彼女と私の素晴らしい親友関係の一節が終わりました。
翌日、美味しいものを食べて、沈んだ気持ちを癒そうと、大丸の8階にある日本料理店に行きました。父が亡くなった時に、レイと一緒にこのレストランで懐石料理を食べたお店でした。美しくて美味しい料理に、心が和らぎました。気持ちを切り替えて、ショッピングに向かいました。
ソノマへ帰って3週間が過ぎました。N子さんのご主人に、彼女のその後の様子を聞きたいと思って、日本時間の朝の9時半に電話しました。以前のN子さんは朝が弱いので起きていないと思ったのですが、彼女が電話に出ました。私だと告げると「恵美子さん、今、どこにいるの?」と元気な様子の声でした。
「11月初旬に札幌へ行ったときに、N 子さんと会ったんだけど覚えてる?」
「あ、、、覚えてない」
「三越のカフェでコーヒーを飲んで、その後、ランチをしたんだけど覚えてる?」
「あ、、、覚えてない」
「陶器の展示会があったので、一緒に見たんだけど」
「それは覚えてる。でも流れがわからないのよね。もう年だから仕方がないと思ってるの」
「いつか私のことを覚えてないときがくるのかしらね」
「それはお互い様でしょう」
「そうだね。二人で『あんた誰?』って言い合うときが来るのだろうね」二人で笑いました。
人生っていうのはいろんなことを体験するものなんだということを痛感しました。
N子さんと私の親友関係は次の一節へと移りました。彼女が私のことを覚えていて、私の声を聞くと嬉しそうにお話ができる間は、電話、そして札幌へ帰った時に会い続けようと思います。
N子さん、今まで素晴らしい親友でいてくれてありがとう!