「恵美子さん、突然で申し訳ありません。ちょっと聞きたいことがあって電話しました」
2021年12月28日、年末の支度に取り掛かろうとしている時期でした。
「どうしたの?」
電話はソノマに住む同郷のK子さんからでした。
こんな時期に突然の電話なので、緊急事態が起きたなと、直感的に思いました。
「兄から母が危篤だという電話があったの。2週間ほどしか持たないというの」
「じゃあ、すぐに飛行機の切符を買わなくちゃね」やっぱりそうだったのかと思いました。
「日本の厚生省が出してる用紙に医者の署名を入れたPCR検査の結果を持参しなければならないという規則なんですって。どこで証明書がもらえるかわからなくてあせってるの。恵美子さん、どこか知ってるところありますか?」
アメリカは医者とは関係がなく、認定されたラボ(分析所?)でテストをしてもらって結果はEメールで送られてきて、それを提示すればいいというシステムなので、医者にPCR検査結果に署名してもらうなんて考えたことありませんがでした。
おまけに年末で、しかも週末です。多くのドクターたちが休暇をとって勤務していないのは明白。
K子さんは12月28(金)、29(土)、30(日)日と、あちこちに駆けずり回ったのですが、どこも署名はできないとのことでした。ようやく日本の様式に対応してくれる検査場所がサンフランシスコで見つかりました。朝の6時に予約を取り、31日、大晦日の夜に医者が署名してくれた所定用紙が送られてきました。翌日、元旦午前8時にサンフランシスコ発の飛行機に乗りました。その間、ほとんど眠らずに、すでに4日が過ぎてしまいました。
羽田に到着したのは2022年1月2日です。
K子さんはここからもまたお母さんの病室にたどり着くまで、多くのハードルを越えなければなりませんでした。
飛行機から降りて居場所を確認するアプリを携帯にインストール、コロナ検査と旅疲れの体で数デスクを通過します。
「それにしても、ものすごいスタッフの人数でびっくりしました。途中であまりにもバカバカしい対応を受けて怒鳴っている人もいました」とK子さん。
最後の検問デスクでコロナ検査結果の通知を受けて、陰性だった人だけが入国審査に入るのですが、ここでグループに分けられてグループごとの担当者が一緒に歩きます。ようやく入国検査、荷物を取って、宿泊所へ行くバスを待ちます。グループから離れたらだめといわれてスタッフがつきっきりです。トイレに行くときにもスタッフが付いてきます。
ようやくバスが来て乗り込むのですが、行き先は教えられませんでした。
私だったら、戦争中の国で、少数派民族が収容所へ送られてる図が浮かんで、怖かったかもしれません。
1時間ほどバスに乗って宿泊施設に到着しました。どこに着いたのかもわかりません。建物の中に入って、やっと府中の警察大学の寮だとわかりました。どこへ行くかも知らせないということ自体が私には信じられません。ここでまた一人一人面談チェック。なんか犯罪者扱いですね。
SNSによる投稿禁止。部屋(バルコニーも含めて)から一歩も外へ出てはいけない旨を伝えれらます。
随分と時間がかかって、ようやく部屋に入ることができました。ここでもショック!典型的な寮の部屋なのはいいのですが、汚いのです。冷蔵庫の上はほころだらけ。トイレ、シャワーは掃除した様子はないのです。長旅で疲れているのに、クレームをつけて掃除の人がやってきて掃除が終わるまで疲れを癒すことができません。
「これから食事を配るが、次のアナウンスがあるまで外に出るな」
30分後に「ドアを開けて食事をとって良い。マスクをしてからドアを開けてとってください」と館内アナウンス。まるで映画で見る収容所みたいですよね。
6日間の強制隔離の生活が始まります。
翌朝、6時30分に検査があると館内放送で起こされます。ここで朝に弱い私なら怒り心頭で血圧が上がってるでしょう。
1日に2回のビデオコールで顔と背景を録画します。居場所確認が3回。熱を測って報告。
「自分が何か悪いことをしたような気分になりました」とK子さん。
この間、何度かお母さんが危篤状況なので、早く札幌へ飛ばせて欲しいと政府と航空会社に嘆願したのですが、受け入れてもらえませんでした。
お母さんの意識が薄れてきているという報告を受けて気が気ではありません。
6日間の強制隔離が終わって、またバスで羽田へ送り届けられました。その後は自分で予約取った品川にあるウイークリーマンションに、これも自分で手配しておいたハイヤーで行って、8日間の自主隔離に入りました。ここでも居場所確認の電話が1日に数回入りました。
合計14日の隔離という政府の規則なので、自由になるのは17日です。
「病院に呼ばれたのでこれから行ってきます」
自主隔離中の1月11日午後11時に義姉から電話が入りました。眠られないままに朝を迎えたK子さんは、午前7時にお母さんが永眠したと知らされました。
頑張って日本に着いて、東京からだと2時間で会えるはずの札幌にいるお母さんにサヨナラが言えず、どんなに辛くて悲しかったことでしょう。
「仕方がない、やるだけ以上にやったんだからこれで良し」といってくれるお母さんの声が聞こえたとK子さん。
アメリカ政府が隔離期間を3日間にしたころ、日本政府も隔離期間を10日に短縮しました。
K子さんは1月15日に自由の身になりました。でもすでにお母さんのお通夜も告別式も終わっていました。
16日に札幌へ飛ぼうと、羽田へ行ってANAで予約してある航空券でチェックインをしようとしたら、搭乗できないと言われたのです。全日空は、隔離期間をまだ14日というのを規則にしているからというのが理由です。
「日本政府が隔離期間を10日に短縮したのに、全日空は、どうしてまだ14日なの?理由はなんですか?」
「会社の方針でございます」
理由を聞きたいというK子さんに、上役と相談すると言って2時間待たされたあげく、結果はノーでした。ホテルに逆戻りです。
K子さんは、今、雪国で誰もいない実家で涙を流しながら一人でお母さんの遺品を処理しています。
「やっと家に来れたね。大変だったでしょう」雪の花が咲いた木々の向こうの空からお母さんの声が聞こえたと、私は信じています。
アメリカに住む私が一番恐れていたのは、親の臨終に間に合わず、お別れができないかもしれないということでした。でも海外に住むことを決めたのは自分なのだから、万が一そういう事態になっても、自分で引き受けなけれならないと覚悟をしていました。
でもK子さんの場合は、それ以上に地団駄を踏むもどかしさだったと思います。
毎年、年末、お正月になると悲しい状況を思い出すことになるのでしょう。
国によってコロナ感染防止政策が違います。
オミクロン株発生の直後ではありましたが、ロンドンへ行っていたK子さんによると、イギリス政府の入国規則は簡潔でした。
搭乗手続きの際に72時間以内に受けたコロナ検査(ドラッグストアーの薬局などでできます)の陰性結果を提示すること、イギリスに入国後2日目にコロナ検査の予約を入れてあることを証明することです。これだけで入国できます。
アメリカへ帰って来た時は、搭乗の72時間以内にコロナ検査をして、結果が陰性だったので入国できました。陽性でない限り隔離の必要はありません。
一時期、アメリカでもたとえば中近東の人の入国を禁止したという事例があります。
入国を禁じられた人たちの中には、長い間、子供や親に会えない、もしかしたらK子さんのような悲劇に遭遇した人が少なくないかもしれません。
国の政策というのは、国民を守ると同時に、多くの人々に悲劇を与える諸刃の剣であることを知ってもらいたくて、K子さんのことを書きました。
K子さんのお母さんのご冥福をお祈りします。