ソノマの暮らしブログ

カリフォルニア州ソノマに住んで25年。第二の故郷と決めた美しいワインカントリーで、ワインを追いかけて暮らしています。

ニュルンベルグの文書センター

4月半ばから5月にかけてドイツ、オーストリア、アルバニアへ行ってきました。

それぞれ、特色があって楽しかったです。

どこにあるかも知らなかったアルバニアですが、バルカン半島にあって、1990年まで鎖国状態だった国だということまでは調べて分かりました。なのであまり期待していなくて、不安と好奇心で夫に引きずられる形で行ってきました。行ってみて驚きました。まだまだ裕福な国ではないいですが、新鮮な野菜と魚介類肉類が豊富で、何よりもよりも驚いた(感激した)のはカフェ文化が発達していてあちこちにカフェがあってエスプレッソがイタリアと同じくらいに美味しいのです。

インターネットは大半のレストランでも使えました。速度も速かったです。

きちんと舗装された山中の国道の端(傾斜地)をヤギが7匹くらいずつ草を食んでいて、山羊飼い?のおじさんがのんびりと後をついて歩いていました。

行ってみなければわからないもんだなあという感想です。

話が外れてしまいましたが、昨年の11月に次いでまたドイツのニュルンべルグに行ってきました。前回は交通手段を間違って、ナチ党大会会場文書センターへ行く時間がなくなってしまいましたが、今回は友人たちがベストの行き方というのを調べて教えてくれたので、無事について、十分に時間をかけて記録を見る(読む)ことができました。

ニュルンベルグはナチの軍部があった街で、戦争裁判が行われたことで知られていますよね。私も、それくらいしか知りませんでした。そしてかなり否定的な印象を持っていました。でも戦後のこの町の人たちは(多分ドイツ全体が)絶対に過去の過ちは繰り返さないという強い意志を持っていて、ドイツの友人たちはリベラルで人種差別に敏感でした。学校教育が徹底してるなあと感じました。ドイツはたくさんのシリア難民を受けれています。もっとも受け入れすぎで国に歪みが出てきていると、アメリカのメディアは報道していますが。

市内を走るバスに乗ったのですが、なんとバスの乗降口が歩道と同じ高さなのです。お年寄り(私も含めて)や体の不自由な人たちがよいっしょと頑張ってバスのステップをよじ登らなくてもいいのです。細かいところまで政策が行き届いているなあと感心しました。

ニュルンベルグはもともとは古い町で1800年代から繁栄していたんですね。1835年にドイツ初の鉄道が敷かれてます。

なぜヒットラーがこの町を選んだのか。

神聖ローマ帝国と関連があったこととドイツの中心部に位置していたことから、ナチ党は巨大なナチ党大会の場所に選びました。特にヒットラーが力を持ち始めた1933年にこの町で開かれた大規模な大会を宣伝映画?として作成、大きな影響を与えました。そして第二次世界大戦時は軍の本部として使われています。

1945年1月2日にイギリスとアメリカの空軍による大爆撃で1時間で町の約90%が破壊されたそうです。いうまでもなくこの町の多くの住民が死亡しました。

戦後、古い町並みを再現した地区があって良きヨーロッパを彷彿とさせて素敵でした。

広々とした文書センターには悲惨な事実が客観的に正確に淡々と記録されていました。本当にすごい規模でナチスは拡大して行ったんだなあと驚きました。600万人のユダヤ人が殺戮されたと記録に記載されていました。

高校生もセンターに来ていました。教育の一環なんでしょうね。静かに記録を読んで、最後のコースであるビデオを沈んだ様子で見てました。

ナチスが牛耳っていた当時、小学生だったという二人の女性の証言がビデオで紹介されていました。

「そんなひどいことが起こっているのは知らなかった。クラスの友人が消えて行ったけれど、お金持ちだからどこかへ休暇に行ったのかなあと思ってました」と二人は話してました。

そのことを友人のドーニャ(50代)に話したら、「うそよ。絶対に知ってたはず」とキッパリと言いました。同国人だから「そうかもしれないね」くらいで話を止めるのかと思っていたので驚いたと同時に、歴史を客観的に学んだのだなあと実感しました。そして最近、右翼が台頭してきたことに顔を曇らせていました。

この国で何が起こって、なぜ起こったのかを記録していて、学校での教育でも徹底して教えているようです。

日本では?

私は歴史のクラスで、日本が中国をはじめアジアを侵略した時代からなぜ世界第二次大戦に繋がったのかについては教えらませんでした。その前で終わってました。時間がなかったのか、政府の方針なのかはわかりませが、、、。

アメリカへ来て真珠湾攻撃について知りました(無知!!!)

今の日本の学校教育では、アジア侵略時代、世界第二次大戦を含む歴史が教えられているのかしら?

戦争記録史とか太平洋戦争映像記録史、ドキュメンタリーや戦争の残酷さを示したセンターはあるようですが、県や国が作った冷静に客観的にアジア侵略の経過を展示した歴史館、外国人や学校の生徒も訪れて学ぶ というのは存在してないようですね。

もし、今の学校教育でも私の時代と同じようにアジア侵略から終戦に至るまでの経過が教えられず、スキップされているとしたら、日本が万が一、国際的な危機に陥った時、どんな風に判断するのかなあと、不安です。

きちんと客観的な事実を把握していないと、ソーシャルメディアの偏った情報に翻弄されかねません。

実際にトランプ大統領の選挙のときに、ロシアがソーシャルメディア(フェイスブック、ツイッターなど)を使って流した大量のうその情報を何百万という人たちが信じて、トランプに投票しています。

アメリカに住んでいると、情報操作が日常的にされているのを肌で感じます。どの情報が正確なのか、情報元をきちんと調べてないと、方向性を失ってしまいかねません。

日本はまだ大丈夫なんでしょうね。

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March for Our Lives (私たちの命のための行進)

3月24日、日曜日に高校生が組織した大規模のデモンストレーションがアメリカ国内、そして世界中で(約800カ所)繰り広げられました。ニュージーランド、オーストラリア、イギリス、ベルギー、インド、フランス、中国、そして日本も参加したと記事にありました。

ワシントン市では80万人がデモに参加したと報道されています。

夫はサンフランシスコで、私は諸事情からソノマのプラザで開催された銃規制法成立を求めるデモに参加。サンフランシスコはかなりの規模だったと夫が言っていました。ソノマもプラザの公園を囲む通りをデモ行進。老いも若きもたくさんの人が参加していました。

ご存知のように2月14日にフロリダ州の高校で19歳の元この学校に通っていた男生徒によって17人の生徒と先生が殺されました。大量殺人です。言うまでもなくAR-15, 半自動ライフル銃が使われました。缶ビールは21歳にならなければ買えないのに、AR-15は買えるのです。

たったの6分20秒で17人が殺されました。

東海岸は西海岸より3時間(時差のため)早いので、午前中にワシントン市での集会の様子がテレビで報道されてました。高校生(スピーチは全員が高校生)の一人、女子高校生が、今日は殺された友人の18歳の誕生日だと涙ながら話して、ハピーバースディの歌を全員で合唱。彼女の悲しさが伝わってきて、見ている私も涙が出ました。いつもは硬派のリベラルなジャーナリストもティッシュペーパーで涙を拭きながらコメントしてました。

この若者たちは本来なら、高校生活を生徒として過ごしていたはずなのに、突然のライフル襲撃を受けるという残酷な事態に巻き込まれ、嘆き悲しむだけではなく、怒りを銃規制法成立要求運動へと怒りを転換しました。大人がうやむやにしている中で自分たちで運動を繰り広げることを、言ってみれば強いられたわけです。アメリカの高校生(小学校も大学も)は、いつ銃による襲撃が襲ってくるかと恐怖心を抱えて学校に通っています。

ソノマの小学校では子供たちがこの事件を知って動揺したので、学校としてはどのように対応するべきか悩んだそうです。

まず亡くなった方たちのために黙とうをして、生徒全員が先生たちにとって、とても大切であること、安全で楽しい場所にするために、頑張っていることを伝えたそうです。

もし誰かが助けが必要だと思ったら、助けてあげるように、何かおかしいと思ったら、両親か先生に伝えること。親切な心を世界中に広げることが出来るはずと伝えたとのこと。上級生はそのことについてクラスで話し合ったそうです。

小学校では、毎月、火災と地震の避難訓練をしています。それに加えて構内で緊急事態が発生した場合に、カギをかけて隠れる訓練も年に2回しています。

私が小学生だったら、テレビで学校の襲撃事件を知って、こういう訓練を受けたりしたら、学校へ行くのが恐ろしくなるだろうと思います。

基本的に暴力社会であるアメリカでは安全な環境で学ぶはずの学校に、銃による襲撃があるかもと覚悟して通うんですね。

大規模な集会とデモを短時間で組織した若者たち、そして全米でデモ行進に参加した若者たちが18歳になって選挙権を得た時、多数が銃規制法の成立を主張する議員に投票して、法律が成立することを祈るばかりです。

日本の高校生は幸せですね。

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アメリカで離婚するということ

 二人に一人が離婚しているアメリカ。私の数人のアメリカ人の友人も離婚しています。 でも外国人である日本人がアメリカで離婚するといううことは大変なことだろうなあといつも思ってました。サポートしてくれる両親や家族はアメリカに住んでいないし、アメリカで友人に頼るといっても限度があるだろうし、、、。

私はカリフォルニアに来る前は札幌地方裁判所の民事部に所属する速記官とてして勤務してました。数回、離婚訴訟の法廷で速記をしましたが、根本的には資産家が資産の分配をどうするかということで争って、訴訟にも持ち込まれるというものでした。

速記官として法廷に入っていたので、法廷での手続き等がわかるということで、年に2回ほど(全くない年もあります)北カリフォルニアのベイエリアにある裁判所の通訳として呼ばれます。日本人は犯罪を犯すこともほとんどないので、滅多に呼ばれないのですが、日本人が多く住むサンフランシスコだと交通違反、離婚等のケースがよくあるようで、結構声がかかりました。でも朝9時に裁判所に着いていなければならないので、朝のラッシュアワーに2時間かけて車を運転してソノマから通うのがきつくて、数年前から仕事を受けてません。

先月、ソノマから車で1時間ちょっと(高速を走って)の所にある裁判所から午後2時の通訳ということで声がかかりました。離婚裁判に持ち込む前の手続きを助けてしてほしいという日本女性がいて、英語が(特に法律用語)あまり得意でなないので、通訳に来て欲しいと言うことでした。 この時に初めて知ったのですが、裁判所内に事情を聞いて離婚申請書に書き込んでくれて、必要な書類等を教えてくれる無料の相談所があるのです。

共有財産をどうしたいかということが主な問題でした。担当の女性は親切にそして辛抱強くこの女性の話を聞いてました。一番彼女にとってベストの分割案などを提案してくれるのです。 気が動転しているのでしょう。質問に答えずに、あれやこれやと事情を話すのですが、嫌な顔一つ見せずに聞いてました(私の訳を通して)

日本でも最近は離婚するカップルが増えているそうですね。あるサイトによると3カップルのうち1カップルが離婚しているそうです。

日本では離婚するカップルの90%が協議離婚だとのこと。離婚に同意したら、離婚届に二人で署名押印して、保証人二人に署名押印してもらって市役所に離婚届けを持って行く。慰謝料や財産分与などは二人で話し合って決めるということで、手続き上は比較的簡単ですね。 離婚に不同意だったり親権や財産分割などでもめた場合は家庭裁判所で調停してもらって離婚を成立させる、それでも同意できない場合は法廷で争うということになるようです。

アメリカでは州によって法律が違います。私が通訳としてお手伝いしたのはカリフォルニア州の離婚法に基づいた手続きの仕方でした。

日本の協議離婚に近い手続きでも裁判所を通さなければならないので、この女性にとっては大変だと思います。 規定の離婚願書(離婚申請書?)に書き込んで裁判所に届けなければなりません。資産、収入、借金、税金申告書、銀行口座の詳細、生命保険、子供がいる場合は親権等を書き込まなけれなりません。(書類のコピー添付かもしれませんが、、、)共有財産等の分割案に二人が合意しても、それを裁判所に提出して裁判官の認定を受けなければなりません。それが大変なので弁護士を依頼する人も多いようです。弁護士の費用が高いので、弁護士を依頼しないで独自に離婚手続きをする方法がサイトに結構載ってますが、英語が理解できなければ無理です。 そしてなんと裁判所に手続き費用を払わなければなりません、 その離婚申請書に基づいて裁判官が離婚を承認?することによって、離婚が成立します。

担当の女性が必要書類の一つを手に入れる場所の電話番号を調べに席をはずしました。その間、彼女の事情を色々と私に話すのです。

「私何歳に見える?」

「70代前半かな?」

「81歳。若く見えるでしょう」とにっこり。

二人の娘もあてにならないから「一人で生きて行くの」ときっぱり。 そのためには最低の生活費を何としても確保しなければなりません。

「日本に帰らないのですか?」

「帰らない。帰っても誰もいないから」

でも落ち込んでいる様子はありません。

「老人クラブでボランティアでコーヒーを入れたりしてるのよ。父が知恵のある人間になるようにって知という文字を名前に入れてくれたの。だから賢く生きていくわ」  

外国で離婚するということは大変なことです。でもその場面に直面したら、乗り越えていかなければならないのだから、落ち込んでる余裕などないのかもしれませんね。 一人でこれからどうしよう、、、と落ち込んでいる様子は見られません。もうそれを超えたのかもしれません。

外国で一人ぼっちになっても、毅然として生きて行く日本女性を見て何かホッとしました。

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