ソノマの暮らしブログ

カリフォルニア州ソノマに住んで25年。第二の故郷と決めた美しいワインカントリーで、ワインを追いかけて暮らしています。

じいちゃんと拡大鏡

ずいぶんと前に亡くなりましたが、私が記憶している父方の祖父「西井のじいちゃん」のイメージは白内障のため、目を細めて、拡大鏡を使って読んでいた姿です。

先日 20年ぶりに 北海道の東部の町、中標津町(釧路から車で1時間)を訪れました。 高校卒業まで住んでいた町です。 30年前に訪ねた時でも、様子が 随分と 変わってましたが、 まだなんとなく 私の記憶とつながっていました。 でも今回はすっかり変わっていて、よく歩いていた叔母が 住む 家までの道さえもわからなくなっていました。 でも 中標津 は 緑豊かで 福祉設備が整った 良い街になっていました。

町の中心と思われるところから車で15分のところに 武佐という地区があります。 列車が走っていた頃は、 母方の祖父母の家まで子供たちだけで列車に乗って遊びに行ったものです。父方と 母方の祖父母は 開拓民として武佐にやってきました。 自分たちで 開拓すると自分の土地になるという政府の方針でやってきたものです。 とても貧しくて 屋根が笹ぶきの家 に住んでいたと聞いています 。

ある日、 父の遺品を整理していたら「 開拓の記」と題した 紙の色が黄ばんだ小冊子が目に入りました。西井の じいちゃんが武佐へ開拓者として入った時のことが 詳細に 自筆で書かれていました。

Jichan 表紙
昭和3年に母方の家族が武佐の開拓村へやってきたころは、ある程度の開拓が進んでいました。大正5年にじいちゃんたち20戸の開拓者が協力して学校を建てています。そのおかげで母たちは学校へ行くことができました。じいちゃんが武佐へやってきた当時は、くわ(鍬)一つで与えられた土地を切り開いたことを回想録で知りました。
昭和39年に中標津町武佐開基50周年記念式典が催されて、この席で、じいちゃん、西井作右エ門さんは開拓功労者として表彰を受けています。それを機に根室原野武佐に入植した当時の模様を記憶をたどって「開拓の記」と題して、昭和40年に書き残したものです。20ページの手書きの小冊子はガリ版印刷で印刷されています。それもじいちゃんが描いたイラスト入りです。詩心もあったようで詩も挿入されています。
コピーが開発されていなかったころ、明治から昭和の中ごろまで、印刷物は主に「謄写版(とうしゃばん)」という印刷機で作られていました。原紙(表面にロウを塗った薄い紙)に鉄筆で文字を書くと小さな穴があき、その穴からローラーでインクを押し出して紙に転写する(孔版印刷)という仕組みです。鉄筆で文字を書くとき、ガリガリ音がするから「ガリ版印刷」とも呼ばれました。
遠い昔の知らない人たちの開拓の苦労話と思っていたのですが、家に泊まりに来ていた温和な「西井のじいちゃん」が厳しい苦労を乗り越えて武佐という土地を開拓したのだと思うと不思議な気持ちです。
ご存知のように北海道に住んでる人たちは、もともとは本州から移り住んだ人たちが祖先です。明治29年に西井家も富山県からじいちゃんが3歳の時に長沼町に移住しています。

以下が、簡単な内容です。
開墾のための伐採作業中にけがをして、じいちゃんが9歳の時に亡くなった父親の跡を継いで、4年の義務教育を終えた12歳のじいちゃんは懸命に働く母を支えて農業に励みました。なんと16歳になったじいちゃんは馬を購入して自分で馬耕もして、19歳で近所の畑を借りて耕作地も増えて、馬を2頭、農具も一通りそろって一般の農家並みにしたのです。でも小作農家です。凶作の年に地主が要求する小作料は不当なことが度々あって、じいちゃんはやり切れない思いを味わっています。いつかは自作農にという希望を抱いていました。そんな時に、根室原野に膨大な土地があり、その土地は肥沃でまだ住民が少なく、未開の荒野を根室支庁が開拓者に無償貸与しているという話が伝わってきたのです。自作農になりたいじいちゃんは母親の反対を押し切って根室原野の開拓に行く決意をしました。長沼の知人5人で出発したのは大正2年11月28日のことです。じいちゃんは最年少、21歳でした。強い意志を持っていた人なのでしょう。長沼から網走までは夜行列車で、翌日から、着替え、なた、鍬などを背負って、草鞋を履いて海岸の砂浜を踏み鳴らしながら斜里まで歩きました。その後は山道に入り、武佐近くになると道一つない笹原を歩き、数夜の野宿をして到着。大正2年12月2日に標津原野(今の川北)にたどり着いたと記してあるので、網走から中標津町武佐まで4日間で着いたことになり、かなりに速度で歩いたんですね。

Jichan 地図
木を切り、細木を集め、小屋を建てて、屋根は刈り集めた笹で囲いました。一間の笹ぶきの家は駕篭のようだったそうです。入植した新区画の土地(今の南武佐)の周辺には一緒に長沼からやって来た5人以外はだれもいません。食料の収穫ができるようになってから残してきた家族を呼ぶという計画だったので、その年のお正月にはじいちゃんともう一人を除いて長沼へ帰りました。残った二人は無人の山奥で越冬。新聞も雑誌も何もない生活を「何んともやり切れないものであった」と記しています。大正3年のことです。雪が深すぎて道をつけることが大変で、どこにも出られず麦飯と秋味の塩汁が毎日の食事でした。一面の白雪、一羽の小鳥もいません。3月に入ってマッチが無くなったので、9.75kmの雪道を歩いて川北という8戸の開拓者がいる小村の知り合いを訪ねて泊まらせてもらって、標津の浜まで歩いてマッチ、塩、石油などの必需品を買ってきました。4月になって雪が解けたので、掘立小屋を建てました。

大正3年5月に初めて、本格的な開墾の鍬を打ち込みました。でも鍬一丁での開墾は、いくら働いてもあまり進まず、収入を得るために出稼ぎに行っています。900坪の土地に裸麦、大豆、とうきび、キュウリそば、芋などを植えて、最初の出稼ぎに行きました。造伐した枕木を流送する仕事です。標津川を慣れないイカダに乗って運ぶのですが、川の流れが急カーブになっているところなどは命がけでした。2ヶ月くらい働いて8月下旬に家へ帰って畑をチェックしたら、島ネズミに食べられて収穫できそうなものは芋くらいしかありませんでした。9月の上旬に芋の堀り取りしたら、収穫量は5,6俵ありました。これを貯蔵して、いったん長沼へ帰って、婚約中だった「たか」さんと結婚。私の父方のばあちゃんです。

大正4年のお正月を長沼で迎えました。妊娠している「たか」さんを長沼において、5月に、根釧原野に乗り込んだ時と同じ夜行列車で網走まで行って、そこから斜里まで砂浜を草鞋を履いて荷物を背負って山道を超え野宿を重ねて武佐の新区画にたどり着きました。
2年目の開墾を始めたのですが、長沼で種まきを終わらせて5月に武佐へ帰ってきたのですが、寒い根釧原野では種まきはこれからなのでした。鍬一丁では一所懸命働いてもあまり開墾が進みません。それでも裸麦などを少し植えました。昨年貯蔵しておいた芋を植える畑の開墾が進まず植え付けることができません。7月にようやく蕎麦を900坪ほど植えることができました。販売できる作物がないので、生活資金調達のために、また出稼ぎに出ました。10月に出稼ぎを終えて家に帰って、麦とそばが一俵ほど収穫できました。とうきびとセンダイカブも採れました。

この年は長沼から帰ってきた仲間が数人いたので一人ぼっちのお正月を迎えずにすみました。長沼へ戻った時に、大工道具ひと揃えを隣村の知人宅に送っておいたのが届いたので、板を作って、小さな机、お膳などいろんな家の道具を作りました。

愉快なのはスキーなるもの標津の浜で初めて見て、早速まねて作ってみたということです。履いてみると雪の上を走れる、歩かずに滑れるので便利だと感激しています。大正5年のことです。
春になって5月に入ると妻の「たか」さんが武佐へ来ると知らせてきました。まだところどころに雪が残っている山道をひた走りに斜里まで迎えに行きました。「たか」さんと一緒に数人の人が武佐へやってきました。新区画に着いた妻「たか」さんは山奥の哀れな住まいに驚きましたが、ここまで来てしまったので帰ることができず、頑張るより仕方がないと覚悟しました。妻「たか」さんは長沼で生まれた長男を背負って開墾を手伝っています。このころには一緒に入植した仲間たちの家族も加わっていたので、「たか」さんは寂しい思いはせずにすみました。6月までに種付を終えて、また流送の仕事に行きました。米、みそなど必需品を買ったら、出稼ぎで得た収入はほとんど残りません。でも当時は、これだけあれば当分の暮らしには十分だとしています。

夏ころから学校の必要が感じられるようになって、部落民(新区画と旧区画を合わせて20戸ほど)で相談して協力して学校を建てています。建築資材は部落民各自が木挽きして、板を3坪ずつ持ち寄りました。大正5年10月に立派な学校ができたと記しています。

Jichan 詩

このころになると、ようやく畑の収穫物も1年分の食料が間に合うくらいになりました。収穫が終わったら、開墾のために笹を刈り、立木の伐採に励んでいます。
「このころ私は張り切っていたのだろうと思う。毎晩、夜業をした。小さなカンテラの灯りで家具を作った。戸棚、箱膳、机、針箱、仏壇、その他、必要な家具はなんでも自分で作ることにしていたが、ただ、桶だけはどうしても作ることができなかった。水が漏れて用を足さなかった」と自給自足の暮らしぶりを記しています。じいちゃんが作った家具を見たかったです。
大正6年のお正月を過ぎたころ、また出稼ぎに出でています。

成功検査というのがあって、5年に5町7反を開墾しなければならないとなっていましたが、鍬一丁では規則通りにできません。それに資金がないので出稼ぎをしながらの開墾なので歳月がかかります。「今と違って国の助成金とか補助というものは何一つなかったが、規則は厳しいものだった」という状況でも「規則通りに拓かねば土地を取り上げることもある」と脅かされました。
「いずれの未開拓地に入地しても立派な農耕地となるまでには3代くらいかかるのが普通だ。石狩や十勝でさえもそうだった。ここでも立派な農耕地となるまでには3代の年月を辛抱せねばならない。その辛抱ができるか」と支庁の係の人に言われました。石狩や十勝よりも悪条件が多い根釧原野なので、大変なことだと自覚しましたが、「今更どうしようもないので最後まで頑張るのみ」と覚悟しました。
大正6年になると14号道路、10線道路(どのあたりなのかわかりません)ができて中央に店もできました。

大正7年2月に私の父、正雄が生まれました。同年3月にまた出稼ぎに出ています。バチ乗りと言って木材の前だけをバチ(方言らしく、辞書では見つかりません)に乗せて、山の斜面を滑り下り、急な所はバチにタガ(ブレーキ)をかけて雪煙を浴びる速さで降りて平地の一定の箇所に集材する仕事でした。「人命にかかわる危険があり、あまりやる仕事ではない」とじいちゃんは思いました。

4町くらいの畑地ができたので農作物を植えました。収穫物のうち、ビルマ豆と蕎麦を少しだけれど売ることができました。「これが入地以来、初めての農作物からの収入で感無量であった」と喜びを表現しています。大正2年に開拓地に足を踏み入れて、5年目にして、ようやくわずかですが農作物を売ることができたのです。この年から郵便物が各戸に配達されるようになりました。

大正8年は冷害凶作で農作物もあまり収穫できず、新しく入地する人も少なくて、脱落して出ていく人もいました。相変わらずの自給自足の生活で、日中は畑仕事、夜はうす暗いランプの下で麦を挽き、とうきびをひきわりして、コメの代用品作りに励みます。妻の「たか」さんは冬の間に地下足袋(ちかたび)を一人当たり3足くらい作るのも仕事でした。

大正9年には大豆と小豆が収穫できるようになりました。この年、やっと馬を買うことができて、馬耕するようになって耕作が進みました。

根室原野は豊凶の差が激しくて、冷害凶作で困る年が度々ありました。ひどい凶作が続いて食料は何も採れず、根釧原野の住民が餓死すると大騒ぎになって政府の救済事業が施されたこともあります。
生活は一向に楽になりません。働くことを少しも緩めることがありませんでした。

農作物による収入が極度に不安定なため、収入源の安定のために乳牛の導入の必要を感じていました。タイミングよく武佐に住む知人が搾乳が面倒だから牛を馬と交換しないかと言われて2歳馬と交換しました。大正14年のことでした。乳量がたっぷりの牛でした。

集乳工場ができて、昭和6年には今の雪印が集乳を始めています。牛乳の生産者は牛乳が入った重い輸送缶を背負って集乳所まで運びました。大変な仕事でしたが、やがて馬車、馬そり、リヤカーなどが利用できるようになり、今は自動車運送になっています。

昭和19年に国鉄根室標津線が開通になりました。この国鉄の列車に乗って母方の祖父母の家に遊びに行ったものです。
「西井のばあちゃん」に私は会ったことがありません。「大勢の子供に見苦しいなりもさせず、洗濯も人並み以上にし、朝早くから夜遅くまで働きとおした」西井のばあちゃんは「夜だか昼だかわからない」とよく言ってたそうです。

忙しい忙しいの毎日を繰り返し続けているうちに大正の年代が去って昭和になって、10年15年と経ちました。
芋を作り牛を飼って徐々に安定した生活が送れるようになったころ、大東亜戦争、第二次世界大戦が始まって、敗戦を迎えました。

昭和21年2月に「西井のばあちゃん」はふとした風邪に罹りました。あらゆるものが極度に不足の敗戦下で医者を迎えても薬をくれる医者はいませんでした。「今では想像のつかないことで、注射代用のトンプクがあると聞き頼んで拝んで三拝九拝して、やっとそのトンプク一服と麦1俵を交換してもらったが、トンプク一服では効き目も見られず、遂に他界した」苦労しっぱなしで亡くなりました。「未知未開の原野に入り、働いて働いて、やっと生活も軌道に乗りかけ、8人の子供も成長して、これからという頃の死で、本当に可哀想なことをした」西井のじいちゃんの哀しみが伝わってきます。
何年もかけて寒い道東の原野で自分の土地を切り開いた西井のじいちゃん。武佐開拓の初期に入植した人物の一人だったんですね。ゆったりとした物静かなじいちゃんが、大変な苦労をして今の武佐を切り開いてきた人物であることを知りませんでした。

「根室原野も苦難の50余年 の歳月を経て、ようやく この地にふさわしい農業が誕生しつつある。馬鈴薯を植え 牛を買い、 経営基盤を整備し 近代的進歩的技術を取り入れ、 今後は堅実な そして 安定した農業が樹立され、根室原野ならではの一大酪農郷として栄えるだろう」と予測しています。

釧路市から中標津町へバスで入った時に、大きな農場があちこちにあって、豊かな酪農家が増えてるなあと思いました。現在、武佐で後を継いだ母方の3代目のいとこの息子さん(4代目)は150頭の牛を飼っています。いとこの農場(ファーム)は、この地域では中規模の農場だとのこと。100haの土地を持つ農場が少なくないそうで、じいちゃんたちが苦難を経て開拓した武佐は 豊かな酪農の地になったのですね。

Jichan 本の中

あとがきに、「書き足りないことがまだまだあります。芋作りのこと、牛飼いのことについても幾度かの盛衰を経ています。目が悪くて、もう書く気力もありません」とあります。
白内障で目がよく見えなくて、大きな拡張レンズを使っていた西井のじいちゃん。今の時代のように手術で良くなっていたら、もっともっと何か書いていたでしょう。

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友人が自殺

長年の友人が最近自殺してしまいました。

名前はマイケル・フェオラ。年齢 60歳。 ジュエリーデザイナーで、プラザにジュエリーのお店を持っていました。彼との付き合いは10年以上でした。 あるワインイベントで彼が奥さんのメリー エレンさんと一緒に参加していたことから友達になりました。マイケルは 優しい笑顔と穏やかな様子のハンサムなイタリア人の男性でした。メリーエレンハウエルファーゴ―・バンクの保険部門の副社長を務めていました。イタリア生まれのマイケルとアメリカで生まれの生粋なイタリア人のカップルから、イタリアの良い習慣や悪い習慣、 典型的なイタリア人の大家族間の揉め事などについて学ばせてもらいました。私とカップルの 3人で、 時にはもう 1 カップルと シングルマザーのレスリーと6人で1ヶ月に1度、 各自が好む レストランへ行ったり それぞれの家で持ち回りでディナーをしたりとい長い付き合いをしてきました。 特に私とマイケルは気があって、彼が他の人に私を腹違いの姉と紹介していたくらいです。
全員がワインと食べ物が大好きということでつながった仲間でした。

leaves with rain large
5年くらい前にメリー エレンが若年性認知症になってしまいました 。医者からの診断では5年後には死亡すると言われていたようですが、 私はそれは誤診と信じてでいました。マイケルは心の中ではそれを理解してたのですが、私には誤診のように話をしていたので、それを信じていたのです。でも だんだんと 病状が進行して、歩くと転ぶし、 最後には お話もできなくなってしまいました 。マイケルはよく 面倒を見る 優しい夫でした。
メリーエレンの症状が進んでからは、以前のように6人で会うことはなくなってしまいました。でも私とマイケルの友情は変わりませんでした。料理上手のマイケルは私をディナーに呼んでくれて、一言も話をしない(できない)メリーエレンと一緒に食事をしたこともあります。
私にできることは彼の話を聞くことしかありません。 それで1週間に1度くらい ワインバーでハッピーアワー(午後4時ころから5時か6時ころまで)にワインを1グラス飲んで メアリーエレンの進行状況や介護の話など 話を聞いてあげてました 。「これぐらいしか できなくてごめんね」
「誰にも言えないことを エミコに話せるだけでも ありがたい。もうどうしたらいいのかわからなくなるんだ」と涙を流したこともありました。 彼が店で仕事をしている時とか、外出しているときには、ヘルパーさんが来ていました が、室内に彼女が座っている 椅子が見えるようにセキュリティのカメラを設置して、いつもチェックしていました。
「 エミコはこれから何するの?」 2人で短い時間 だけどワイン を 飲んで別れる時に聞かれました。
「ホールフードで今日の夕飯の食材を買って帰るわ。 マイクは?」
「 彼女の ダイパー を買って帰る 」と、 そんな会話も稀ではありませんでした。 でもさすがの マイケルも一人でメリーエレンの面倒を見ることができなくなって、遂に施設に入れることにしました。メリーエレンは1年後にそこで亡くなりました。
「担当の人から電話が入って、『亡くなる前の症状が出てきてるので、すぐ来るように』という電話が入ったんだ」と、ある 朝、マイケルから電話が入りました。急いで施設に駆けつけました。 メリーエレンは施設の個室で眠ってるようで、まだ息をしてました。 シカゴから飛んできたお姉さんとメリーエレンの親友のスーザンと 私とマイケルと、朝から夕方までずっと 彼女を見守りました。その日は持ちこたえたのですが、翌日の早朝に亡くなりました。享年55歳でした。

最愛の妻を亡くした後のマイケルは、まるで糸が切れたタコのようで、 私が知っているマイケルはどこ行ってしまったのだろうと思うほどでした。 一人でいることに耐えられないと言って、ネットの出会い系サイトを通して、デートをしていたんだけれども、どのデートも実りませんでした。 そしてマネージャーとして雇っていた 21歳の女性と親密な関係になってしまいました。 私は「本気ならそれでもいいんじゃないの 」と言ったのですが、60歳の彼と21歳の彼女 では、年齢の差を克服できなかったようです。 彼女はサンデイエゴで新しい彼と一緒に住むといって引っ越して行きました。
コロナ惨禍中はもちろん会うことがなかったのですが、コロナ惨禍が終焉してからも、以前のように会うことがなくなってしまいました。 私自身が外へ出ない 暮らしに慣れてしまったのです。 彼と一緒に夕食をすることも、 数ヶ月に1度くらいになってしまいました。

彼が亡くなる一週間前です。
「2024年は 外へ出る年にしようと決めたの。来週、一緒に食事しない?」 マイクのお店をに寄って夕食に誘いました。商談中でしたが、快く返事をしてくれました。
「オーケー、 来週のいつがいいの ?」
「いつでもいいよ」
「 じゃあ 木曜日か金曜日にしょう。後で電話するね」
「オーケー、 じゃあ、 電話待ってるわ」と言って別れました。
その時のマイケルは一瞬引いた感じで、少しくらい暗い目をしていたのですが、自殺を計画してる人のようには 見えませんでした。 でもそれは私が注意を払っていなかったことなのかもしれません。木曜日になっても電話が入りません。 金曜日に「今日のディナーはどうですか」とメッセージを入れたら、「ごめん!仕上げなきゃいけない仕事があって、今日はディナーは無理。月曜日にまた連絡するからと」返事が来ました。月曜日にも、火曜日にも連絡来なかったけれども、 まあ 忙しいんだろう、 この次にまた会えばいいと思って、そのままにしてしまいました。
水曜日になって娘と車に乗っていたら、娘の携帯電話にマイケルの店の新しいマネージャーからメッセージが入ってました。娘はマイケルの店の契約書作成をしたので、マネージャーは娘の携帯電話の番号を知っていたのです。メッセージをチェックした娘が「マイケルに何か大変なことが起こったみたい。もしかしたらマイケルは死んだのかも、メッセージの声が普通じゃないのよ」とすぐに電話をしました。
私は「何を言ってるのよ」という感じで、 娘 が電話をしている様子を見ていました。
「ママ、マイケルは死んでしまったよ。自殺したのよ」
「そんなことはありえないでしょう。マイケルが自殺するなんてありえない」あまりのショックで涙も出ません。私の電話番号はマイケルの携帯電話に入っていますが、 もう 警察が入ってるので、誰も彼の携帯電話を開けることができません。 マネージャーが娘の番号を持っていたので彼女が娘に電話を掛けたのです。
その時のショックは言葉では表現できません。 自らの命を絶ってしまったというのと、 車のなどの事故で突然亡くなってしまったというのでは、全く違う心の痛みを感じる ということがわかりました。
どうして自殺をしたのか、憶測はできても本当のことはだれにもわかりません。

金曜日にオーケーだけじゃなくて、なぜ何かメッセージを送らなかったのだろ。月曜日カ火曜日に「まだ忙しいの?」と彼を思いやるメッセージを送らなかったことを悔みました。
「どうしてディナーを断ったのだろう」と何度も自問する私に「マイケルはママにサヨナラを言いたくなかったのよ」と、娘が慰めてくれました。
今は彼の思いやりだったんだと思うようになりました。もし亡くなる一週間前にディナーをして、いつものようにさよならしてたら、自殺を計画していた彼のことを察知できなかった自分を責めたと思います。マイケルがいつもの彼を演じたこと、何も言ってくれなかったことなど、一生考え続けることになったでしょう。
亡くなる一週間前に突然思い立って、彼の店に顔を見に行ってよかったです。
「じゃあ、来週、会いましょう」と言う私に、商談中なのにわざわざ私のところまで来て、ハグをして頬にキスをしてくれました。彼なりのサヨナラだったのでしょう。私もサヨナラしたかったというかなわぬ思いがあります。彼の奥底に潜まれた暗闇を私は読み取ることができませんでした。おそらく彼を知っている人たちも同じだったと思います。
その後、 1週間は彼の店の前へ行くことができませんでした。 ついに勇気を出して店の前 に行ってみました。 ドアも 窓口もぴったり閉まっています。 ドアの前にどなたかがお花をお供えしてくださってました。

マイケルは、もう、この世にはいないのだという事実を認められるようになりました。それでも、このことをマークに話そうと、ふと思うことがあります。彼の優しい笑顔が心に浮かびます。 そして「マイケルはこの世にいないんだ」と頭の中で繰り返して確認します。 これはどなたでも、 例えば亡くなった私の両親についても同じですが、亡くなった哀しみ、 会いたいというつらい気持ちは同じかと思うんですが、衝動的ではなく、重要書類をきちんとテーブルに並べて、計画的に自分の意思でこの世を去ったという事実が心に突き刺さります。
仲の良い友達でも心の奥底に潜んでいる 暗闇を知ることはできないということを今更ながら認識しました。

white flower
来週、 彼を偲ぶ会 がプラザの公園で開かれます。誰にも優しくて親切で明るかったので、 たくさんの人が偲ぶ会に参加されることと思います。
マイケルはメリーエレンと再び一緒になって、苦しみも消えて幸せだろうという風に考えると心が安らぎます。

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待ち合わせは三越のライオンの前で

11月初旬に4年ぶりに札幌に帰りました。コロナのせいでずっと帰れませんでした。 札幌に滞在中、本州は夏のように暑くてニュースによると ラーメン祭りなのに かき氷がよく売れたと言ってました。 札幌の11月は初雪が降る時期です。さぞかし寒いだろうとセーターをスーツケースに詰めて覚悟して帰ったのですが、ラッキーにもそれほど寒くなくてありがたかったです。 私が帰った後に雪が降ったみたいです。

親友N子さん
札幌を離れて35年余り、帰ると必ず会ってくれる親友のN子さん。滞在中は私のスケジュールに合わせて、会えるだけ何度も時間を作って会ってくれたものです。小柄で優しい可憐な声で上品に話すN子さん。 とっても知的でそれはそれはいろんな話を飽きることなく話しました。辛いことも楽しいことも話し合ってお互いに支えあってきた親友です。

mitsukoshi Lion

札幌での待ち合わせは、いつも、三越のライオンの前でした。
その彼女が背骨を骨折して2カ月入院しました。 退院して2週間後の初めての外出で、 私に会いに来てくれたのです。
会う約束の電話では、
「あー、恵美子さん、お帰りなさい!」いつもの彼女の声でした。
「入院、大変だったね。もし外出できるのなら、土曜日に会いたいと思ってるんだけど、空いてる?」
「はい、土曜日は空いてます」
「何時がいい?」彼女のスケジュールに合わせようと思って言いました。
「何時でもいいけど、11時半はどう?」
「了解」
「私がN子さんの地下鉄駅の琴似まで行くから、地下鉄近辺でランチかお茶をするのはどう?」先日の電話でご主人から、退院後、まだ外出してないと聞いていたからです。
「大丈夫。三越のライオンの前まで行けるから」自信たっぷりでした。
「じゃあ、いつものように三越のライオンの前で、明日、会おうね」
「はい、土曜日の11時半に」三回ほど念を押すように繰り返しました。
もしかして土曜日が明日だということを認識してないかもしれないとふと思いました。

翌日、三越のライオンの前に、少し遅れて着きました。彼女はいません。彼女のご主人から電話が入りました。
「今朝、彼女のスケジュール表を見たら11時半に会うと書いてあったので、だれに会うの?と聞いたら、誰と会うんだったか覚えてないというので、もしかしたら恵美子さんじゃないのと言ったら、そうかもしれないっていうんだよね。それから大急ぎで出かける支度をして、今、家を出ました。タクシーで行くように勧めたんだけど、地下鉄で行くと言い張って地下鉄で行きました。うまく着くかどうか心配なので着いたら連絡ください」
N子さんは1時間半ほど遅れてやってきました。細い彼女がもっと細くなってました。
「ごめんね、遅れてしまって」といつもの笑顔です。
ふらりふらりと頼りなげに歩くので、私が手を添えて一緒に歩いたのですが、この歩き方でどのようにして地下鉄の階段を上ったり下りたり、そして人ごみの中を歩いてきたのか信じられません。
いつものように三越のカフェの窓際の席で交差点を行きかう人々を眺めながら二人でコーヒーを飲みました。ああ、札幌に帰ってきた!親友に会えたという嬉しさがこみ上げてきました。
「歩くのが大変だからランチはどこか近いところにしようよ」
「大丈夫よ、歩けるから」歩行が不自由なことを認識してないようです。
すぐ近くのレストランでランチを食べながら、いつものように いろいろ話をしました。話がずれることなく知的な会話をちゃんと続けてくれます。でもどこか 昔の彼女とは違います。私が話し掛けないと、じっと下を向いたままです。
「話してると普通なんだけど、その後、すぐに忘れてしまうんだよね」とご主人が電話で言ってたのを思い出しました。今日、二人で過ごしたひと時を彼女は 覚えていてくれるのかなと悲しくなりました 。
N子さんと私は20代から同じ職場で働いていました。部署が違うのであまり話をすることがありませんでした。当時のオフィスレディの典型的なパターンで、N子さんは間もなく職場の男性と結婚しました。
一方、私は典型的パターンからかなり外れていて、組合活動やら政治活動に明け暮れていました。国家公務員なので政治的なデモ(組合のデモはオーケー)などには参加すべきではないのに、大勢の仲間たちが繰り広げる大きなデモに参加したりしてました。上役にそれとなく注意されたこともあります。

そんなある日、会合の後、アパートに帰る途中でタクシーにはねられて頭に怪我をしてしまいました。脳波に異常が出るほどの怪我で、1カ月ほど入院。職場に復帰したものの、後遺症で頭痛に悩まされ、脳波に異常が出て倒れてしまうから、激しい運動はしないように、走るのもダメと言われてました。
朝の通勤にバスに乗っていたのですが、バスが遅れて勤務時間に遅刻しそうになりました。一緒に政治活動をしていた職場の仲間たちは私を置いて、さあっと走っていきました。私一人残されたのです。遅れる覚悟でゆっくり歩いていたら、N子さんが横に来て一緒に歩いてくれたのです。
「勤務時間に遅れるから先に行って」
「少しくらい遅れたって大したことないでしょう」とN子さん。
弱い人に寄り添ってくれる女性がいたのです。政治活動をしていた仲間と同じように、私のスピードについてこれない人には関心を持っていなかった自分に気が付きました。この時から友人としての付き合いが始まりました。

私が渡米してからも、彼女との交友は続きました。
一歳半の娘を連れて札幌へ帰った時に、N子さんの次女のノンちゃん(5歳)が一緒に遊んでくれました。その時にノンちゃんは英語が話せたら、もっと娘と楽しく遊べるから英語を勉強したいと思ったそうです。そしてノンちゃんはボストンの大学に留学しました。娘が高校生の時に休暇でボストンから帰ってきていたノンちゃんと娘は英語でおしゃべりしてました。
N子さんは50代の時に、勤務中に、突然、頭が真っ白になるという症状が頻繁に起きるようになって、早めに退職しました。医師の診断ではどこも悪いところがないということでした。でも、今、認知症になってしまったことと関係してるかもしれません。
ホテルへ帰って一人になった時に涙があふれてきました。もう生き生きとした優しい笑顔のN子さんと昔のように話をすることができなくなってしまったのです。彼女と私の素晴らしい親友関係の一節が終わりました。

翌日、美味しいものを食べて、沈んだ気持ちを癒そうと、大丸の8階にある日本料理店に行きました。父が亡くなった時に、レイと一緒にこのレストランで懐石料理を食べたお店でした。美しくて美味しい料理に、心が和らぎました。気持ちを切り替えて、ショッピングに向かいました。

MItsukosi kaiseki
ソノマへ帰って3週間が過ぎました。N子さんのご主人に、彼女のその後の様子を聞きたいと思って、日本時間の朝の9時半に電話しました。以前のN子さんは朝が弱いので起きていないと思ったのですが、彼女が電話に出ました。私だと告げると「恵美子さん、今、どこにいるの?」と元気な様子の声でした。
「11月初旬に札幌へ行ったときに、N 子さんと会ったんだけど覚えてる?」
「あ、、、覚えてない」
「三越のカフェでコーヒーを飲んで、その後、ランチをしたんだけど覚えてる?」
「あ、、、覚えてない」
「陶器の展示会があったので、一緒に見たんだけど」
「それは覚えてる。でも流れがわからないのよね。もう年だから仕方がないと思ってるの」
「いつか私のことを覚えてないときがくるのかしらね」
「それはお互い様でしょう」
「そうだね。二人で『あんた誰?』って言い合うときが来るのだろうね」二人で笑いました。
人生っていうのはいろんなことを体験するものなんだということを痛感しました。

N子さんと私の親友関係は次の一節へと移りました。彼女が私のことを覚えていて、私の声を聞くと嬉しそうにお話ができる間は、電話、そして札幌へ帰った時に会い続けようと思います。
N子さん、今まで素晴らしい親友でいてくれてありがとう!

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