春先、まだ霧が深いドライクリーク・ヴァレーを走りぬけて、朝、10時に科学分析室のドアを叩いた。トムは3,4個の科学分析器具の前で忙しそうに立ち働いていた。室内にはざっと数えても16ほどの測定器が並んでいる。今日は月間測定週の1日だということで、50ロットのテイスティング、科学分析をするのだそうだ。この日はマロラクティック発酵、SO2(フリーSO2とトータルSO2)、摘定で酸度を測っていた。

トムのフルネームは、トム・キサイチ(日本名は私市 友宏)。ソノマ・カウンテイ、ドライクリーク・ヴァレーにあるワイナリー、ミシェル・シュラムバーガーのエノロジスト(科学分析担当)として働いている。大阪府交野市の出身。酒屋の長男で妹と弟がいる。本来なら大学を卒業後、親の商売を継いで酒屋の旦那として、さしてお金の不自由もなく暮らせたはずだ。それがなんでソノマにいるの?というわけで、いろいろ聞いてみた。背がすらっと高くなかなかのハンサム。時々、ユーモアたっぷりのきつーい冗談が飛び出す。無口で柔らかな大阪弁で丁寧にゆっくりと話している合間なので、思わず、えっ?と自分の耳を疑ってしまう。

11年前に親の商売の関係でフランスへ行く機会があった。ボーヌで1977年のラ・ターシュを飲んで「いつかブルゴーニュへ行ってみたい。ワインはピノ・ノワール!」と思ったのだった。

妻のレベッカとは大阪の大学で知り合った。三島由紀夫のファンだったアメリカの大学の教授に影響されて、ノースキャロライナから留学してきたのだった。

大学卒業後にフランスへ行くことを固く決意。どうしてもお酒屋さんの後継ぎになるのは、いやだったのだと言う。フランスのワイン業界を頼って働かせてもらえると思ったのだが、現実はそんなに甘くはなく、セールスマンが住むところを探してくれたのが唯一の親切だった。それでも出かけるところがすごい!フランス語もできなかった。学生ビザでまずは1年間。娘のエーミーは3歳になっていたというのだから、勇気があるというのか、常識的にいえば無謀?

就職を捜して3,4件のワイナリーを訪ねたけれども、雇ってはくれなかった。ようやく見つかったのが、ジュブレ・シャンベルタン村のドメーヌ・アルマン・ルソーだった。このドメーヌの女主人が日本贔屓で英語ができたために雇ってくれたらしい。畑からセラーからいろいろ働いた。レベッカはフランス語の勉強のために学校へ通った。「フランスは住みにくかった。寒くて冬の剪定は辛かったあ!カリフォルニアの冬とは比べものにならない。まるで氷の上に立っているような感じだった」と思い出すだけで寒そうに肩をすくめた。

1年後日本へ帰国。3ヶ月滞在してグリーンカード(アメリカでの居住権が得られるカード)をもらった。これはレベッカがアメリカ国籍なので、簡単にもらえる。

フランスで働いた経験があるから、カリフォルニアのワイナリーではすぐに働かせてくれると読んだのだが、見事にはずれた。10社ほどの大手ワイナリーに手紙を出したが返事さえ来なかったという。ここでまた無謀というか、頑固というか、待っていてもどうにもならないと、とにかくカリフォルニアへ発ったのだった。1991年7月のことだ。

落ち着いたのはソノマ・カウンティのローナートパークという町である。そこでソノマ大学へ通い英語を勉強した。翌年、92年の秋にソノマ・カウンティにあるStonestreetというワイナリーで収穫期に働いた。

地元のサンタ・ローザ・ジュニア・カレッジでワイン関係のクラスを取っていたときに、隣の席に座っていたのがホップランドにある大型カスタムワイン生産ワイナリーのラボ(科学分析部)のマネージャーだったことから、運が開いていく。ハーベストに働きに来ないかと誘われたのだった。4年後にはラボマネージャーに昇格している。もちろん、この間も、デイヴィス校の短期コースでいろんなクラスを取って勉強することを怠っていない。それにたくさん本も読んだ。

日本の大学では経済を専攻したので、科学的知識はそれほどなかったはずだが、本人いわく、日本の高校の科学知識があればやっていけるという。でも英語が話せなければ、ちょっと無理だと思う。いろいろと分析中の結果やプロセスについて私に丁寧に説明してくれた。科学知識のほかに数字に強くないとだめだなと実感した。いろんな単位の数字をどんどんメモして、それをコンピューターに入れて集計するのだから、コンピューターにも強くないといけない。マネージャーとなったら、スタッフとの意思の疎通も図らなければならないから、英語は必須だ。

その後、現在、働いているミシェル・シュラムバーガーのエノロジストとして採用され、今年で3年半になる。「ここでは一人で分析しているので、気は楽だけれども、サンプルがたくさん来ると、そのプレッシャーはすごい」と言う。分析結果によってワインの味が変わることもあるので、仕事の手は抜けない。責任感がのしかかるけれども、だからこそやりがいもある。

トムは朝7時35分に家を出て8時から仕事に入る。仕事は楽しい。いろんなワインのテイスティングができる。毎月50ロットの樽からの試飲をすると、味が変わっていくのがわかる。前年との違いも把握できるようになったし、例えば99年は良いヴィンテージだとすぐにわかったという。今、ちょっとマンネリ化したと感じているけれども、ワイナリーで新しい葡萄を植えたので、その葡萄がワインになるのを楽しみにしている。

でも自分の手で自分のワインを造ってみたいという夢が膨らむ一方だった。将来の夢は「自分の畑をもつこと」ときっぱり。「葡萄さえいいのが手に入ればワインはどこでも造れる」からだ。レベッカも今は醸造家になった。コンサルタントとして知られているヘレン・ターリーのアシスタントを務めた経験もある。

「ワイン造りは面白い。ボルドー系ワインを造りたい」

「なぜピノ・ノワールではないの?」

「ブルゴーニュのピノ・ノワールとカリフォルニアのピノは全然違う。ブルゴーニュで感動したタイプのピノはカリフォルニアでは造れないような気がするから。ブルゴーニュのような繊細なニュアンスは出せないと思う」

1999年、遂に夢を実現した。ナパ・ヴァレーのスプリング・マウンテンにいいメルローがあるのをレベッカが見つけたのだ。1999年10月15日に葡萄を摘んでワインを造った。生産量は137ケース。ラベルはMaboroshi とした。トムが自分でデザインしたラベルはユニークである。紫をバックにブルーのイーグル(鷲=ハゲタカ風、スクリーミング・イーグルを示唆?)と濃い目のピンクに黄色の角をもつムートン(ムトン・ロトシルド?)を彼が描いた。ユーモラスといえばそうも思えるし、真面目でフランスとカリフォルニアの超高級ワインの線を狙っていると言えば,そのようでもあるし,トムらしいラベルである。

ワインのほうはかなりの本格派だった。メルロー(81%)とカベルネ・ソーヴィニヨン(19%)をブレンドしてある。「コルクを抜いて,1-2日置いたほうが美味しくなるよ」というトムの言葉から半分だけ飲んで,残りは翌日に飲んでみた。最初に飲んだメルローは、酸味がまだ若いという感じはしたけれども、味が最初から最後までエレガントにびっしり詰まって、なかなかのものだった。翌日に残しておいた半分を飲んでみて、全く同感。空気に触れて味わいが広がりより深みのあるワインになっていた。このワインに熟成する力があることを示している。

2000年,2001年とワインを造っているけれども、自分の畑がないので、イメージに合った葡萄を見つけて造っている。

トムとレベッカの10年後は?「絶対に畑を見つけてワインを造っている」とトムは宣言した。今,必死で畑を探しているのだけれども,なかなかぴんと来る土地に出会えない。それに良い土地は異常に高い。悩みは大きいけれども,この10年間,着々と夢に向かって進んできた二人のこと、きっと幻ではなくて,実像をつかむことだろう。

フリーSO2の測定ではグリーンになったり紫になったり、揮発酸のチェックではピンクになったりと、科学分析って,結構、カラフルなんだなと、測定とはまるで関係のない感想を抱いて外へ出た。

トム&レベッカのサイト:www.maboroshiwine.com