ソノマの暮らしブログ

カリフォルニア州ソノマに住んで25年。第二の故郷と決めた美しいワインカントリーで、ワインを追いかけて暮らしています。

黒人の母の哀しみと強さ

大柄な黒人男性、ジョージ・フロイドを白人警官が首の後ろに9分以上も膝を押し付けて、窒息死させた事件の有罪判決が出されたことは、日本でも報道されたかと思います。

これで警察官の黒人の対応が少しは変わるかと思ったのですが、変わることがなく、数日後に、黒人男性を警官が射殺する事件が、数件起きました。

警官が黒人(特に男性)を射殺する事件は、今始まったことではありません。携帯電話のビデオで目撃者が経過を記録することが出来なかった時代にも起きていました。でも映像がないのでTVで取り上げることもなく、証拠の提示ができなくて、警察側の都合の良い主張が認められて、被害者は泣き寝入りするしかなかったのです。

日本で警官が質問もしないで一般人を殺すなんてことは、考えられないですよね。

射殺された理由が20ドルを偽札と知らずに使おうとした、車の窓に消毒スプレーを吊り下げていたことから警官が車をストップしたら車の登録期限が切れていた、捜索令状を渡しに来た(ライフルで後ろから射撃)と、たったそれだけのことで射殺されています。

黒人(特に男性)は、ガンを持ってる、犯罪を犯している恐ろしい人種だというイメージが社会的に定着しています。私もそのイメージを持っていて、ちょっとだけ黒人男性を恐れていました。実際、ギャングやドラッグディラーが居住している地区は危険なので、一般の人が行くことはありません。

黒人を差別するっていうことは、日本人の私にとって、黒人と対面したときに、「うわ、苦手」と、わざと近寄らないようにするとかといった感情的なものと思っていましたが、実はそれだけじゃないのですね。人種差別を基にした白人優先主義を貫いた政府の長い政策が関係しています。

黒人が住む危険地区、あるいは黒人だけが(間接的に強要された)住む一画は、学校もボロボロ、新鮮な野菜や果物を買うことができるスーパーなんてありません。公害にさらされた一画に住んでいる貧しい黒人がたくさんいます。

白人が住む居住地の不動産は黒人には売らないか、バカ高にして買えないようにする。

同じ仕事をしていて、能力が同じでも白人のほうが早く昇給する(これは女性の場合にも当てはまります)といった社会の構造的な差別がまかり通っているのです。このことを書くと長くなるので、省略します。

最近、警官に射殺された男性たちは大きな犯罪を犯した人たちではありません。でも警官にとってはどの黒人も一般的なイメージで対処するのだと思います。黒人が運転する車をストップしたときに、すでに警官の一人が銃を構えていることも稀ではありません。

普通に暮らしている黒人の男性たちは、警官に車を止められたら、殺されることを覚悟しているそうです。皮膚の色が違うということだけで、大学の教授であろうが、医者であろうが、国を守る兵隊であろうが、数度は、そういった危険な経験をしているとのことです。多分、オバマ前大統領も似たような経験をしていると思います。

黒人の母親たちは息子が幼いころから、警官に止められたら、抵抗しないで礼儀正しく接すること、運転中に止められたら、両腕はハンドルにのせておくこと、運転免許証を自発的に探さないこと(ガンを探していると勘違いされて射殺される)等を教えています。

そして母親は息子が家を出るたびに、無事に帰ってくることを祈っています。

不法な行為に対して公正な裁判を要求するのは当然です。

「警官が罰せられても、私の息子は帰ってこない」

最近、射殺された20歳の青年(一人息子)の母親は涙を流していました。

子供を亡くした母親の哀しみは世界共通です。

黒人の若者が殺害される事件は昔から起きていました。

母親の哀しみと強さが記録に残っている二つの大きな事件があります。

1955年8月、14歳の黒人の若者、エメット・ヒルはシカゴからミシシッピーの家族を訪問していました。大都市に住んでいる若者なので、差別が徹底している田舎の村だということが意識になかったのでしょう。従兄弟に見せるために敢えて雑貨店の前で白人の女性に近づいて見せたのです。その4日後に、白人女性の夫と雑貨店のオーナーが、若者を連れ去って、それはむごい暴力をふるって殺害して川に放り込みました。浮き上がった死体があまりにも無残で、若者の叔父は、唯一、イニシャルの入った指輪から甥だと確認できたのでした。

警察は早急に遺体の処理を主張したのですが、若者の母親、メミー・ブラドリーは遺体をシカゴに送ってくれることを要請しました。

一人息子のあまりにもひどい遺体を見た母親は、棺をオープンして葬儀をすることを決心しました。人種差別者がいかに残酷な暴力で息子を殺害したかを、世界の人に知ってもらいたいということからでした。地元の雑誌が死体の写真を撮って掲載したことから、主流マスコミが関心を寄せて、大きく報道しました。

全員が白人の陪審員は、結審の1時間後に、殺害者の二人に無罪の判決を出しました。

アメリカ国内で大きな怒りがわいて、黒人の市民権運動の機動力になったのです。

2017年にこの事件を追いかけて出版するために、著者が若者に侮辱されたと夫に話した白人女性をインタビューしたところ、エメットは彼女に一切触らなかったし、脅かしたりはしなかったと告白しています。

1981年のことです。それほど昔のことじゃありません。20世紀のリンチです。

KKKのメンバーが19歳の黒人青年、マイケル・ドナルドを殴り殺して木に吊しました。その理由は、警官が殺されて、黒人を容疑者として逮捕したのですが、陪審員の意見不一致のため、未決定審理になって容疑が釈放されたので怒り狂いました。その怒りを表明するためにマイケル・ドナルドを殺害したものです。この青年は煙草を買いに家から数ブロック離れたお店へ歩いて行ったのを、二人の殺害者が若者を車に無理やり入れて、殴り殺したものです。

マイケルの母親、ブーラ・マエ・ドナルドは悲しみに打ちのめされました。

1955年に白人女性に近づいたという理由で殴り撲殺されて木に吊るされた犠牲者の母親に共鳴して、棺をオープンしたままの葬儀を行いました。青年の顔が酷く変形するほどに殴られた遺体を葬儀の出席者、マスコミに見てもらって、いかに残虐な行為かを知ってもらいたいという意図からです。

犠牲者が住む小村、モビルの警察は犯人逮捕の捜索をしないことを知った母親は、息子のために犯人を捜すことを決意したのです。モビル村の警察はKKKのメンバーが犯人であることを知っていたにもかかわらず強硬な捜索をしませんでした。殺害者の一人は告白して罪を逃れました。

母親のブーラはモビル村の黒人コミュニティと協力してデモを繰り広げ、名の知れたジェシー・ジャクソンをはじめとする公民権運動の活動家の関心を呼び、この運動に参加したのです。

ついにFBIが捜査に乗り出しました。それでも操作は進まず。ようやく1983年、息子が殺害された2年後にアラバマのKKKのランキング2番目の白人男性の息子、ヘンリー・フランシス・ヘイを逮捕しました。陪審員は殺害者に死刑の判決を出しました。アラバマで黒人男性を殺害した白人が死刑の判決を受けたのは1913年以来でした。

ブーラは彼女の息子を殺したのは殺害者だけの責任ではないと考えて、KKKを訴えた経験がある公民権専門のモリス・ディズ弁護士に会いに行きました。

マイケル・ドナルド殺人事件はKKKの組織が命令したもので、KKKの組織の政策だと考えたました。不法な死だとしてKKK組織を連邦裁判所に訴えたのです。

この事件に関与したKKK(United Klans of America)はアメリカにおいて最も大きな組織の一つでした。この組織はアラバマ州で一世紀にわたって黒人虐待をしてきました。この組織が1963年に黒人の教会を爆破して女の子3人が死亡した事件がよく知られています。

マイケルの母親、ブーラは裁判で勝ちました。1987年に全員が白人の陪審員だったのですが、結審から、たったの4時間で判決を出したのです。

「United Klans of Americaと数人のメンバーに総額700万ドルの支払うこと」という判決内容でした。

「私にとって、お金は何の意味もありません。私の息子は帰ってきません。有罪判決が下って嬉しいです」静かな声で話しました。

United Klans of Americaは700万ドルを払うお金がなくて、アラバマの本拠地のビルを彼女に渡すことになったのですが、その建物の価値はなんと22万5千ドルだけでした。支払いを命じられたメンバーの中には支払うことができな人もいて、賃金が付け合わせられ、彼らの財産が押収されました。

嘆き悲しんだマイケルの母親、ブーラ・マエ・ドナルドの嘆き、哀しみ、怒り、強さが、残酷なリンチ事件が再び起きることを防いだのです。

母親のブーラは歴史的な判決が出された翌年、1988年に亡くなりました。身も心も疲れ果てたのでしょう。息子のところへ逝きました。

「彼女の意思は岩のように硬かった。決して撤退しませんでした」と彼女の弁護士は話しています。

現在も黒人のお母さんたちが哀しみをばねに、正義を求める戦いを続けています。黒人男性(黒人全て)の命の尊さを警察が理解する日が来ることを願っています。バイデン大統領は時間がかかるでしょうが、対策を打ち出すことでしょう。

*KKKはアメリカの白人至上主義者のテロリスト憎悪グループ。その主な標的は、アフリカ系アメリカ人だけでなく、ユダヤ人、移民、左翼、同性愛者、カトリック、イスラム教徒、無神論者です。

AP photoを使わせていただきました。

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多民族国家の歪み

1月末、サンフランシスコの人通りがない住宅地の歩道を黒っぽいヤッケを着た痩せぎすの初老のアジア人が歩いていました。突然、黒っぽいジャージーを着て野球帽をかぶりマスクをした細めの若者が、後ろから襲って押し倒して逃走。

数日後、同じような事件が起こって、押し倒された初老のタイ人は転倒した時に頭を強く打って死亡しました。

最近、頻繁にアジア人バッシングが報道されています。

昨年の3月から今年の3月までにアジア人を対象とした嫌がらせを含む攻撃の被害は3800ケースと急増。届けを出していないケースを含めると、その数はもっと多いだろうと言われています。

アジア人バッシングを調査している組織によると、言葉による嫌がらせが68%、嫌がらせを避けた人が21%、暴力を受けた人が11%、被害者は3分の2が女性、また中国系アメリカ人が40%、韓国系アメリカ人が15%、フィリピン系アメリカ人が8%と発表してます。

アジア人バッシングが警告されている中、3月16日にジョージア州のアトランタ市近郊で21歳の若者がアジア系女性が多く働いているアロママッサージ・サロンに銃を発砲、8人が射殺される事件が起きました。警察は殺害者の動機は不明としていますが、被害者の6人がアジア人であることから、この事件を機にアジア人バッシングが、大きく取り上げられるようになりました。

アジア人は習慣として(日本人も含めて)、嫌な目にあっても大事になることを避けて我慢します。アジア人は優秀な移民で、多くの成功者を出しているというのが一般的な評価です。

でもアジア人バッシングが激しくなってきたことから、若い世代の後押しで、アジア人が、長い間、差別を表に出さず、我慢してきた事実を公に話すようになりました。

あちこちでアジア人バッシング反対のデモが繰り広げられました。多くの若い世代のアジア人、それに白人も参加しているデモを見て、若い世代がアメリカ社会に深く根付いている人種差別を克服していくかもしれないという希望を持ちました。

今日(3月31日)もニューヨークでアジア人が蹴飛ばされて骨盤を骨折するという事件が報道されています。

中国系アメリカ人のプロのバスケットボールのプレーヤーはプレー中に「コロナウイルス」とよばれたと発表。

「お前は汚い!自分の国に帰ろ!」と怒鳴って唾を吐きかけられた人が少なくありません。

トランプ前大統領が記者会見でコロナウイルスを「チャイナウイルス」とか「カンフルー」と何度も繰り返し呼んだので、中国人とコロナウイルスを結びつけたのでしょう。

今のところ、アジア人が多く住んでいるロスアンゼルス、サンフランシスコ近辺、ニューヨーク、シカゴなどの都市で多くの被害が出ています。

世の中が不安な状態になると、怒り、恐怖、フラストレーションをぶつける対象に、一定の民族をスケープゴートにして攻撃をするようになります。

世界第二次大戦のときに日本人(アメリカ市民であっても)が全員収容所に入れられました。

1982年に日本車の輸入数が多くなって、アメリカ自動車業界は不調のため多くの労働者を解雇しました。デトロイトの自動車産業で働いていた二人の労働者が、日本車の輸入のせいで解雇されたと日本人に恨みを持ち、バーで友人と語らっていた27歳の中国系アメリカ人、ヴィンセント・チンという若者(結婚を1週間前に控えていた)が野球バットで殴り殺されました。彼らにとっては日本人であろうが中国人であろうがヴェトナム人であろうが、関係ないのです。殺人者の二人に罰金が3000ドル、3年の保護観察という軽い判決が出されて、アジア人軽視の風潮が大きく取り上げられました。

中近東のテロ事件が多く発生するようになった時には、イスラム教の人たちがバッシングされています。

「お前はウイルスだ、自分の国へ帰ろ」と言われたら、アメリカ生まれのアジア系アメリカ人はどんなに悔しいことでしょう。彼らにとって自分の国はアメリカなのですから。

「英語上手だね。どこから来たの?」と聞かれると、アメリカ生まれの生粋のアメリカ人だと思っているアジア系アメリカ人は「自分はこの国に属してしていないのか?」と複雑な気持ちになると話していました。

ソノマは大半の住民がリベラルだと思うので、嫌がらせをされることはないと思っています。もし「自分の国へ帰ろ!」と怒鳴られたら、怒り心頭なのは100%確実ですが、私には日本という誇りに思っている国があります。

帰る国がない人、帰ることなんかできない人の悲しさ、悔しさに心が痛みます。

万が一、嫌がらせを受けたときに、言い返す言葉を考えました。

緊迫した状況の中で、即、言い返すことができなくて、後で悔しくて、「ああ言えばよかった、こう言えばよかった」と後悔するタイプなので、考えたのです。

「私は中国人じゃない!ところでそういうあんたは何人?」

家族に意見を聞いてみました。

「中国人を突き放すの?それってちょっとね」と夫。

デトロイトで中国系アメリカ人が日本人と勘違いされて撲殺された事件をきっかけに、これまで民族間の接触をしてこなかったことに気が付いて、アジア人は協同して反対運動を繰り広げることが大事という結論に達したのです。

だから私の反撃の言葉は,その共同体から中国人を退かせるということにつながるんだという解釈なのです。

多民族の国は難しいです。

社会や経済状況が不安定になると、親切で素晴らしいアメリカと、醜いアメリカが浮き彫りになります。

サンフランシスコで70代の中国人女性が信号待ちをしていたら、突然、男性に顔を殴られて両目が腫れて出血してるニュースがベイエリアのテレビで特報されました。テレビ局のクルーが、偶然、居合わせたのです。この女性は英語が話せないので、中国語でわんわんと泣きながら訴えてました。孫がGoFundMeという資金調達プラットフォームで治療費の募金をお願いしたら、なんと100万ドルの寄付が集まったそうです。アジア人バッシングに心を痛めている人がたくさんいるということですね。家族は彼女が受けた被害は、彼女だけの問題じゃない、もっと大きな問題だということで、このお金をアジア人バッシングを守る会の組織に寄付すると発表しました。

多くの人種が共存しているアメリカという国の平穏な時には現れない歪みが、コロナという異常事態が起きた時代に現れた歪みなのでしょう。

esquireの写真を使わせていただきました、

 

 

 

 

人種バッシングに強い声で反対を訴えると同時に、日常的にすぐには変わらない根深い人種差別を少しでも無くしていく運動をするしかないのでしょう。

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ささやかなお雛様

窓際のテーブルで春めいた日差しを浴びながら、遅めの朝食を取っていました。今朝のメニューはオーガニック専門のスーパーで揃えた、ラズベリー、ブルーベリー、刻んだ梨半分とバナナ半分にラクトースフリーのプレーンのヨーグルトとホワイト・チア・シード(Chia seed)をかけて、炭水化物はオーガニックのマルチグレイン・ワッフル。色が綺麗です。

「今日も良い天気で、気持ちがいいなあ。でも雨が降らないと干ばつになって、また夏にあちこちで山火事が発生することになるかも、、、」心の中でぶつぶつ言ってたら、早起きの圭子さんからメッセージが入りました。

「おはようございます。お雛様が近いのでお赤飯を作りました。餅米蒸して!良かったら持って行きましょうか?」

「わあ、懐かしいですね。ぜひお願いします」

「えっ、もう3月、そしてお雛様?」と軽いショック。ほぼ毎日、家で過ごしているため日月の感覚が薄れてしまったのです。

早速、母が送ってくれたお雛様を飾りました。

あでやかです。お部屋が華やかになりました。

「何段にも飾られたお雛様が売られているけど、全部アメリカに送るのは大変だから、内裏雛だけにしたからね。デパートの人が丁寧に梱包してくれたから、壊れないでで届くと思うよ」懐かしい母の声を思い出します。

母は2014年2月末に亡くなったので、すみれ色の着物を着た若き日の母の写真の前に飾ったお花が、まだフレッシュです。母が好きだったピンクと白の花のブーケを娘が買ってきてくれました。

お雛様を送ってもらってからもう15年以上の月日が経ちました。遠い日のようでもあり、ごく最近だったような気もします。

年金暮らしの中で、母が貯めたお小遣で送ってくれました。

破損なしで無事に届きました。

「なよみがお嫁に行ったら、彼女にあげてね」

「うん、わかった、約束する。ありがとう」

3月3日から4時間遅れて4日に生まれた彼女の孫は、未だに独身なので、お雛様はまだ我が家にあります。

2016年に「カリフォルニアワインの里 ソノマの暮らし」と題する本を出版しました。(アマゾンで購入できます)私のことを心配してくれる友人に、ソノマでこんな風に暮らしてるよということを知ってもらいたいなと思って書いたものです。

もうカリフォルニアにやってきて35年くらいになるのですが、札幌へ帰ると必ず時間を作って会ってくれる友達がいます。札幌地方裁判所の速記官の先輩は、そんな友人の一人です。

偶然なことに、先輩の自宅から歩いて行かれるところに父(2016年に亡くなりました)の老人ホームがありました。一人でも多くの人に父を訪ねてもらいたいという私の勝手な気持ちから、手紙を先輩宛に送るから父に持って行ってほしいとお願いしたら、快く引き受けてくれました。手紙がない日もちょくちょく訪ねてくれました。

本の中にお雛様という項があります。先輩はその項を父に読んであげたそうです。

お雛様と一緒に送られてきたオルゴールから流れる「明かりをつけましょぼんぼりに、お花をあげましょ桃の花」を聴くとほろっとすると書きました。先輩はその箇所で、父の前でその歌を歌ったのだそうです。

「西井さんは笑ってました」という報告をくださいました。目を細めてちょっと口元をほころばせて愉快そうに笑う父の笑顔が目に浮かびます。

何度も父を訪ねてくれた先輩には、何度お礼を言っても足りないです。

この歌を聴くとしんみりしてしまうもう一つの思い出が加わりました。

江別にあるイオンというデパートに母が倒れる1年前に札幌へ帰った時に、一緒に買い物に行きました。食料品売り場のアイスクリームを売っているコーナーでこの歌が流れてました。

「アイスクリーム食べる?」

「うん」と母がにっこり。

二人でベンチに座ってアイルクリームを食べました。小柄な母が足をぶらぶらさせながら嬉しそうにアイスクリームを食べてた様子が写真のようにぱっと浮かびます。喫茶店には二人でよく行きましたが、アイスクリームは、初めてで、最後になりました。母はそのことを感知して普段はベンチでは食べないアイスクリームを私と一緒に食べてくれたのだと思います。

母の葬儀が終わって、残された父と私の食料品を買いにイオンへ行きました。するとお雛様の曲が流れていました。二人でアイスクリームを食べたベンチを見たら涙が止まりませんでした。

日本には四季ごとに様々な行事を祝う深い文化があります。

自然と向き合って季節をめげる日本の風習を、私なりにソノマで楽しみたいと思っています。

今年はコロナのため、友人を招くこともできず、我流ちらし寿司と、家庭菜園に冬なのに元気に育っている三つ葉を入れたお澄ましで、家族だけのささやかなお雛様を祝いました。

そして両親のことを思い出すしんみりとしたお雛様でもありました。

、昨年植えた小さな桃の木に花が咲いたので、歌にちなんで写真を撮りました。

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